2020/05/05 東高円寺散歩 01 高円寺南中央通り/福寿院/長善寺/凰林寺/高円寺中央出張所/長龍寺/宗泰院

珍しく朝からお休み。
密を避けて近所のまだ行ってない所を散歩。
家の前から杉並区の最東部を歩いた。



この日記では家の南側にあるお寺がいっぱいある所を散策。



◆高円寺南中央通り

そういえば、ウチの前の商店街って無電柱だった。



◆福寿院




 当院は、祥雲山と号する曹洞宗の寺院です。
 本尊は、像高46cmの金銅釈迦如来像(江戸期)で杉並区内においては、たいへんめずらしい「金鋼仏」です。
 江戸時代の『御府内備考続編』には、当寺の起立は不詳としながらも天正十九年(1591)に境内地を拝領したのを開創としています。 一方明治
十年の『寺院明細帳』には、明確に慶長十九年(1614)四月を開創としており、何等かの根拠に基づいているようですが、くわしいことは明らか
でありません。寺伝によれば開山は雪底春積(寛永四年<1627>寂)と伝えられ、徳川幕府創業に功績のあった伊賀藩士の慰霊のために、同藩士
三浦氏等十二人が開基となって開創したとされています。
 当院は、『文政寺社書上』によると、麴町十三丁目(現新宿区四谷二丁目)に境内拝領地五四九坪を持ち、間口八間半奥行五間の本堂と、他に鎮守堂、薬師堂が建てられていました。明治四十年四月区画整理のため現在地に移りました。現本堂は、昭和十一年類焼で失い昭和三十九年再建されました。文化財として、地蔵菩薩立像(江戸初期)地藏菩薩半跏像(江戸初期) などがあります。
 本堂の裏に「東京都指定旧跡(昭和十五年二月指定)」となっている『溪齋池田英泉之墓』 があります。英泉(1790~1848)は江戸星ヶ岡(現千代田区永田町)に生まれ、多くの美人画、絵本や木曾街道六十九次などの風景画を描いた、江戸時代後期の代表的な浮世絵師でした。


池田英泉墓




 江戸時代後期の浮世絵師、名は茂義のち義信、字は混声、溪齋(けいさい)・无名翁(じみょうおう)・北亭(ほくてい)と号し、戲作者と
しては一筆庵可候(いっぴつあんかこう)。寛政二年(1790)池田茂晴の子として江戸星ヶ岡(現在の千代田区永田町)に生まれた。はじめ狩野白珪膏(はくけいさい)に就いて画法を学び、のち菊川英山の門に入り浮世絵を学んで美人風俗画を得意とした。また、北膏の画風を慕い、
風俗画では洋風の遠近明暗の技法を用いた江戸の名所絵も多い。嘉永元年(1848)七月二二日、五九歲で死去した。『浮世画譜(うきよえふ)』『武勇魁図会(ぶゆうさきがけずえ)』『歌枕二世譚(うたまくらにせものがたり)』『花柳街寄恋白浪(くるわによるこいのしらなみ)』など著書も多く。自叙伝『无名翁随筆(むみょうおうずいひつ)』や『楓鎧古跡考(ふうがいこせきこう)』など考証研究に関する著述もある。
 墓所は明治四〇年四月区画整理のため、四谷御簞笥町(現在の新宿区三栄町)から現在地に移転の折り改葬された。



山門



◆長善寺




 当寺は如法山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界諸尊と日蓮聖人坐像です。寺伝によれば天正十八年(1590)、円立院日義によって江户府内の谷中(現台東区谷中)に開創され、はじめは実蔵坊と称していましたが、二世長善院日行の時に現在の寺号になったと伝えられています。
 その後、五世日成の時代に谷中本村(現荒川区東日暮里)の地に移転しています。しかし、近代に入り国鉄線路拡張のために再び移転をよぎなくさ れ、大正十五年に高円寺の寺町の一角を占める現在の地に移ヶました。昭和二十年末、火災で堂宇を焼失し現在の本堂は昭和三十四年に再建されたものです。
 本堂左手前の三十番神堂は『新編武蔵風土記稿』に谷中本村の鎮守と記載されているもので、天保四年(一1833)再建の古い建物です。堂内には法華経を守護するという三十体の番神が把られていますが、当寺のように三十番神像が全部揃っているの は都内でも珍しいといわれます。
 文化財としては江戸時代からすでに知られていた十羅利女像・毘沙門天像が安置されているほか、鬼子母神像や板碑も所蔵されています。
 なお、墓地には德川幕府の鍛金打物師として名高かった家城源七(文化十三年〈1816〉没)の墓があります。



三十番神




 三十番神様と云うのは、日本圏の著名な天神地祇三十神が一ヶ月三十日の間、每日順番に交替して、国家、国民を守護せられるという信仰です。
 昔は神仏混交の時代神仏を合せ拝する意味で、お寺の中に祭られ、読経で祈られていました。
ご神体は衣冠束帯のご神像です






◆凰林寺




 鳳林寺は瑞祥山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像(宋朝風蓮華上宝冠の華厳会釈迦如来像)です。
 当寺は永禄元年(1558)、江戸牛込御門外舟河原(現新宿区市ヶ谷の飯田橋駅周辺)へ草創され、後に本寺吉祥寺(現文京区本駒込)八世の松栖用鶴大和尚 (1630年歿)が開山となり寺容を整えました。
 開基は旗本の荒川長右衛門重照(1657年歿)で、中興開基は、御蔵奉行をつとめた旗本の長田新右衛門房重(1693年歿)です。
 寛永十二年(1635)に寺域が幕府の御用地となったため、新しく拝領した牛込七軒寺町(現新宿区弁天町)に移りました。明治の末頃に、弁天町通りの拡張に伴い寺域が狭くなったため、大正三年(1914)に、二百八十年を過ごした牛込から、現在地に再度移転しました。
 明治七年(1874)、現新宿区西早稲田にあった夾山(かっさん)寺 (吉祥寺末)が、当寺に合併しています。
 境内には、厄除け子育ての延命地蔵尊を安置するお堂があります。「大石仏の地蔵」と言われる延命地藏尊は、行者晴雲が願主となり、諸国の神社仏閣巡拝で受けたお札を納めるため、元文二年(1737)に夾山寺へ造立されました。以前は、家庭和合を守る愛染明王像を安置したお堂も境内にありました。現在、愛染明王像は本堂に安置されています。墓地には幕末の医家多賀谷楽山、書家の多賀谷向陵と画家の多賀谷酔雪親子、詩人の金井莎邨(しゃそん)等の墓があります。また、太田蜀山人の師である内山賀邸も当寺に葬られ、過去帳に名をとどめています。


「?」



山門
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◆高円寺中央出張所



見っけ♪
こちらには「高円寺中央出張所」となっているが・・・・・。
写真を拡大すると「高円寺中央会議室」って書いてあるのが見えた。
施設案内 高円寺中央会議室|杉並区公式ホームページ




◆長龍寺

コロナウィルス感染拡大防止のため中に入れず、外からお参り。




 長龍寺は富聚山と号する曹洞宗の寺で、本尊は釈迦如来坐像です。
 寺伝によれば文禄二年(1593)に心岩舜応和尚が麹町四番町(現千代田区四番町)に開創したと言われます。元和二年(1616)に寺地が御用地となり、市ヶ谷左内坂(現新宿区市谷左內町)に境内地を拝領して移転しています。明治四十二年(1909)、市ヶ谷の陸軍士官学校の拡張に伴い、この地に移転しました。宝暦六年(1756)建造の本堂、元文二年(1737) 建立の山門は、この時に移築Lたもので、古い建造物の面影をよく伝えています。
 寺伝によると、元は「長隆寺」という寺名でしたが、開山した玄室宗頓和尚が本寺である雲松院境内の池に住む竜に偈を授け、小蛇と化したところを捕えて当寺の寺宝とさせたことにちなみ、長隆寺の「隆」を「龍」に改めたと伝えられています。
 江戸時代の長龍寺は、開基である幕府御使番河野氏をはじめ、油川武田家を主体とした旧武田家臣团ならびに徳川の名門松平十四家である滝脇松平家(世良田家)、朱鎗の名家長坂血鎗九郎家、応仁の乱の西軍の将として有名な「山名宗全」を生み出Lた山名家の本家、その他旗本・名家七十六家の菩提所で、代々の住職は朝廷より勅賜号を賜わるなど、寺運は隆盛をきわめました。
 境内の地蔵堂には、山之手二十八番地蔵の第十一札所として著名な、宝永五年(1708) 造立の豆腐地藏尊が安置されています。



石造地蔵菩薩立像

 本像は、江戶時代の宝永五 (1708) 年に造立された等身大の石仏です。像容は端正で、容貌も整って尊願を表し、衣紋などの彫刻も丁寧で流麗に仕上げられています。本像の右耳は欠失していますが、当寺の『長龍寺縁起』にその由来が記されています。由来によると、元文年間(1736~41)の頃、小僧に化けた地蔵が豆腐を買いに行ったが、木の葉の銭を使用したため怪しまれ斬られたというもので、そのことから本像は豆腐地蔵と俗称されています





◆宗泰院

こちらも柵から向うに行けなかったので外からお参り。




 当寺は山号を永昌山と号寸る曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼仏です。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正十二年(1584)、麹町表四番町 (現千代田区四番町) に草庵を結んだのが始まりといわれています。開山は小田原万松院の格峰泰逸和尚で、文禄二年(1593)に、幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整えました。
 その後、元和二年(1616)に至り、寺地が旗本の屋敷地と定められたため、市ヶ谷左内坂(現新宿区市谷左内町)に境内地を拝領Lて移転、寺院の取り締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられています。
 当寺の檀家は旗本・御家人尾張藩士などの武家三百五十家とその出入商人などで、本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有寸る旗本寺として隆盛を誇ったといわれています。
 明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰えまLたが明治二十年代には復興し、明治四十二年、陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転しました。
 宝曆七年(1757)建立の本堂、寛延三年(1750)建造の開山堂は、そのまま移築Lたもので、江户中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物です。
 なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、慕末の名剣士鈴木派無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあります。




続く。