2020/05/09 池上散歩 06 万両塚/池上本門寺五重塔/力道山墓所/佐伯矩顕彰碑/本門寺公園/川端茅舎旧居跡

池上本門寺東側エリアから東へ進む。



◆万両塚




徳川家康の孫、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室、芳心院は、お墓をつくりました。』
とある。
「芳心院」をwikiで調べても、詳しい情報がない。

万両塚について。
万両塚とは建設費に一万両もかかったと称されるためについたのだとか!
しかも、蛇嫌いのため寄せ付けないように堀に水をたたえていたとのことだが、2003年の調査では水があった形跡はなかったとのこと。
蛇嫌いは俗説のようだとあった。



石門



法等の門柱基礎と寸法が合わないため外堀の外に建てました。
何度も加工を加えられたあとがあります。



芳心院の侍女たちの墓と供養塔



信仰生活を共にしていた大名の正室と侍女たちの暮らしが偲ばれます。






復元弥生住居跡




「いのちの営みを伝えるために住居跡は再生されました」
「江戸時代万両塚を築くとき住居跡半分が壊れました」
弥生時代池上の山の上には大きな集落がありました」




復元地層トレンチ










復元弥生住居跡







堤方権現大古墳(復元)



 6世紀前半に築かれた古墳。江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」にこの地にあった熊野神社後方の塚から「古刀古器」が出土したという記述があり、古墳であることは推定されていました。
 万両塚周辺調查の際、古墳の周濠 ・埴輪・須惠器・土器が出土。平成19年には本格的発掘を行ない、馬具一式·木製の鞘に収められた鉄製直刀·鉄嫉を取り付けた矢が数十本等の副葬品が出土。さらに、刀の
脇の土の部分に白いしみのようなものがあり、骨盤から下の下半身の骨格であることが確認されました。
全体で4mほどの木棺に副葬品とともに納められていたことが想像されます。
 なお、昭和7年に住宅が建てるために整地した際に、古墳の主体部ごと上半身が削りとられたのではないかと考えられています。






池上本門寺五重塔







力道山墓所




力道山先生 名は百田光洸 九州大村の産 幼にして角界を志し関脇に栄進せるも 1951年プロレス界に転身 爾来研鑽鍛錬 多くの門弟を育成 後進の道を拓き斯会の始祖となり隆盛を齎す 1962年WWA世界選手権獲得 名声世界に洽きも 昨年末不慮の災に遭い急逝 時39才 1周忌に際し門弟一同碑を献納 謝恩の意を捧げつつ不滅の偉業を讃う。1964年12月15日 建立








◆佐伯矩(さいきただす)顕彰碑



読み取れない部分があるので、文字をおこすのを断念。

「佐伯矩」をwikiで調べてみた。
『佐伯 矩(さいき ただす、1876年9月1日 - 1959年11月29日)は、日本の医学博士で、栄養学の創始者、栄養学の父である。医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。自分で料理をすることはほとんどなかった。
栄養は保健・経済・道徳の基本をなすと「栄養三輪」を唱えた。著書『栄養』では、栄養学だけでなく食糧政策にも言及し、魚類を重んじ畜産は小動物にすべきとしている。
佐伯が少年時代に育った愛媛県郡中町(現・伊予市)の栄養寺には、佐伯の筆による「栄養」の書と「栄養」顕彰碑が建立されている。 』
とあった。
佐伯矩 - Wikipedia






◆本門寺公園




高低差があり、結構広い公園だった。













◆川端茅舎旧居跡




 五重の塔の前の道をだらりと下り、本門寺裏へぬけて急坂を登りつめた左角ーに川端茅舎が住んでいました。茅舎は、日本画川端龍子の異母弟で、昭和三年、兄龍子の用意したこの家に父親とともに移ってきました。
今では俳人として知られる茅舎ですが、この家に移るまでは俳句と同時に画業もこなす風流人でした。大正十年には洋画家の岸田劉生に師事し、同十二年に『静物』画が芸術院展に入選しています。
 一方、俳諸誌に句が入選するようにもなり、昭和十三年には『ホトトギス』紙上で新進作家として取り上げられました。また画師である岸田の死と自分の病がもとで画業から遠ざかったこともあって、この頃より俳句の世界に専念しました。川端茅舎は、馬込を描写した七句を残しています。

つばはいて はこべ花咲く 溝と知る
せりの根を 洗いし溝に かみそりも
草萠えて 馬大王座を 既に占む
万福寺 門前あぜを 塗る田なし
梅の丘を けずりてせりの 田を埋む
鶯の 丘をラッパや 豆腐売り
鷲の こだまの九十九谷かな




みっけ♪




続く。