2020/05/09 池上散歩 08 中央五丁目公園/お地蔵様/佐伯山緑地/子母澤寛旧居跡/いにしへの東海道/子母澤児童公園

前のエリアから北東に進む。




◆中央五丁目公園

この坂道は前の日記の「汐見坂」






本門寺散歩は、龍子記念館から東急線池上駅までの約2.6kmのみちのりです。 日蓮上人入減の地である池上本門寺を半周し、参道より池上駅に至ります。本門寺には新東京百景の五重塔があり、周辺には多くの寺院が点在します。

汐見坂
この坂は、かつてここから大森の海や海苔ひび(海苔を付着させるために海中に立てておく木や竹をたばねたもの)がよく見えたことからこの名で呼ばれるようになりました。現在は、大森付近の埋め立てが進みビルも建ち並んで当時のようには海は見られません。
また、この付近は、江戸時代には桐ヶ谷村と呼ばれ、東海道品川宿助郷村(宿場に人馬を提供することを課せられた村)に指定されていました。その後、明治22年荏原郡池上村に編入され大字桐谷となり、昭和7年の区政実施で大森区桐里町、さらに昭和40年住居表示実施で現在の中央五丁目となりました。
この中央五丁目公園は、昭和51年開設し昭和59年に現在の広さに拡張しまじた。傾斜地を利用したロッククライミングや擬木すべり台、季節の植物を配した植栽が特徴となっています。

龍子記念館
龍子記念館は、昭和8年川端龍子画伯の喜寿の記念に、画伯自身の発意と設計によって設立されました。通伯、の没後は社団法人青龍社によって運営されてきましたが平成2年12月の青龍社の解散に伴って、記念館と所蔵作品等が大田区に寄贈されることになりました。
大田区では文化勲章授賞者として数々の名作を残した巨匠の代表作を保存し、広く区民に公開するとともに、芸術文化の普及と振興を図るため、大田区立龍子記念館として、その事業を引き継ぐことになりました。

熊谷恒子記念館
現代女流かな書の第一人者して高名な熊谷恒子先生の旧居と作品書道関係の書籍等をご遺族がら大田区にご寄贈先だき熊谷恒子記念館として平成2年4月馬込文士村の閑静な一角に關設ました。
洗生の優雅で艶麗な墨跡は、目本文化の一精華であり書道界においてその作品や功績高く許価きています。
昭和40年には皇太子妃美智子殿↓へのご進講を努められましたことでも広く知られています。






みっけ♪




◆お地蔵様

google mapには載っていないお地蔵さまだった。





◆佐伯山緑地












見晴し広場






以前ここには佐伯栄養専門学校があった場所とのこと。
この学校は前の日記でも紹介した「佐伯矩」により創設された学校。
google mapには「佐伯矩博士胸像」がマークされているが、現在はもうないのかな?
一通り見てみたけど無かった・・・。




子母澤寛旧居跡




北海道生まれの梅谷松太郎は二十六才の時妻子とともに上京し、大正十二年(三十一才)新井宿西沼に移ってきました。新聞社に在職する傍ら執筆活動を行い、昭和三年には「新撰組始末記」を処女出版、このとき始めて筆名の『子母澤寛』を用いました。
姓は当時新井宿の子母澤に住んでいたところから、名は寛(カン)という語呂の響きを好んだためとされています。
大衆文学台頭の時期でもあって、作品発表はかなりのハイベースでした。昭和十一年の新聞にはーこの頃の執筆は月産三百五十枚を下ることがなかったーと記されているほどです
昭和六年頃からは作品の映画化. 劇化が相次ぎ、『弥太郎笠』などが話題を呼びました。新聞記者を辞めてからは執筆活動に専念し、昭和十一年に山王へ移転後、「勝海舟」の新聞連載を始めます。その後昭和二十年、同続編を連載中に藤沢市鵠沼へ移転して、彼の新井宿・山王住まいは終わります。




◆いにしへの東海道





子母澤児童公園隣接。




◆子母澤児童公園





続く。