2020/05/17 品川小山散歩 04 西霧ヶ谷公園/大陽日酸本社/孟宗筍栽培記念碑/京極稲荷神社/共栄会/後地公園

西霧ヶ谷公園から南西に進む。


◆西霧ヶ谷公園




大陽日酸本社

日本の産業ガスメーカー
東証一部上場の大企業だね!




◆孟宗筍栽培記念碑



 この碑は、竹翁(ちくおう)といわれる山路治郎兵衛(やまじじろべえ)が亡くなった翌年の文化三年(1806)の一周忌に、子息の三郎兵衛が父の歯骨を埋め、その上に建てた墓碑である。碑面には「櫓(ろ)も楫(かじ)も弥陀にまかせて雪見哉 釈竹翁」と、治郎兵衛の辞世の句が刻まれているが、筍の碑として、治郎兵衛の功を顕彰するものでもある。
 治郎兵衛は、廻船問屋であったが、鹿児島の特産物の孟宗竹を移入し、戸越村や周辺の村の農民に栽培を奨励して商品化に成功し、農民に収入の道を開いた功労者である。竹翁の呼び名は、その功を称えてつけられたものである。






◆京極稲荷神社



 京極稲荷神社の草創は、約三百六十年前の寛永十二年(1635年)に始まります。
 四国の講岐丸亀五萬二千石の城主、京極家は、上屋敷虎ノ門下屋敷は二個所に所有し、白金三光町と当地にありました。当地の屋敷は
敷地面積八千四百坪に及ぶ広大なものでした。
 当稲荷神社のご神体は、豊受大神と申され、京都、伏見稲荷の分神とも伝えられています。
 京極家の守護神として、現在の小山二丁目十六春地辺りの茶畑の一隅に十二坪の神殿を構えていました。
 明治四年の廃藩置県で藩地奉還の世となり、京極家は当神社の管理を地域住民に委ねて帰国しました
 大正七年二月に、地域の有志がこの境内地を議り受け、神社を移して奉祝しました。
 以来、毎年二月の「ニノ午の日」には、在住各位の奉賛により、祭祀をたつことなく今日に至っております。
 境内には、地域の後地大神興が、大正十四年から大切に保管されております。
 昭和二十年五月二十三日の大空襲で、この周辺は、後地交差点から星講堂の基礎が見える程に、悉く焦土と化しました。
 しかし、大神興は、不思議にも焼失を免れ、往時の雄姿を今に残しています。このことは、当稲荷神社の紛れもない加護によるものと、語り継がれております。
 なお此の度の再建にあたり、御影石の社号標、洞の土台等は、後地小学校旧正門の石柱を加工し、使用したものです。




丸亀藩京極家下屋敷

 京極家は、讃岐国(香川県)丸亀藩五万二千石の藩主で、江戸屋敷のうち上屋敷中屋敷は現在の港区内にあり、下屋教は二か所をかまえ「白金屋敷」(港区) と「戸越屋敷」と呼ば
れていました。
 戸越屋敷は現在の品川区小山二亍目十四番から十七番付近にあり、寛文六年(1666)二代藩主の京極高豊の時に取得し、敷地面積約8400坪(約2万7千平方メートル余) と広大なものでした。
 この屋敷からは、野菜や薪を上屋敷などに供給していたことから、京極家と地元農民は結びつきが強かったと伝えられ、 明治初年に京極家の手を離れた後も、同家の屋敷内にあった京極稲荷神社は今も地元有志によって守られています。






◆共栄会

商店街♪





◆後地公園



続く。