2020/05/24 祐天寺周辺散歩 04 油面地蔵通り/油面子育地像尊/目黒競馬場跡/多摩台目黒歩道橋/目黒寄生虫館/大鳥神社

まだまだ東へ進む。
目黒競馬場跡は目黒通り沿いにあり、そのまま目黒通りをすすんでいく。



◆油面地蔵通り

商店街♪









◆油面(あぶらめん)子育地像尊



油面子育地蔵尊(高地蔵)
 この地蔵尊は、「高地蔵」と呼ばれ油面の人々に親しまれています。
 もと、目黒通り(昔の二子道)の油面交番近くの小高い角地に立っていましたが、昭和9年に道路拡張のため現在地に移転されました。土手の上に総高2米以上もある高い地蔵が祀られていたので「高地蔵」の名が生まれました。
 享保の頃、 江戸は連年の飢僅や大火で生活困難のため多くの死者を出しましたが、その人たちの冥福を祈り救済を願って享保18年7月(1733) に祐天寺に於て供養が営まれ、六十六部供養塔とともに祀られました。
 また、この地蔵の左側に「南無阿弥陀仏、 祐天寺、 祐東、 文政元年」と刻まれた名号碑が建っています。
 今も育児の厄除けに霊験あらたかな子育地蔵尊として信仰され供養を続けて、毎月3の日に縁日が開かれています。




隣のパン屋さんからいい香りが漂ってきた♪






◆目黒競馬場跡

前にも来たことがある。
2017/02/19 part5 目黒競馬場跡/大鳥神社/目黒新橋/権之助坂 - ovanの社会科見学


 明治四十年(1907年)、政府の馬質改良奨励により、この地に目黒競馬場が開設された。それ以降、昭和八年(1933年)府中市に移転するまで、明治、大正、昭和の時代を通じて、ここで競馬が開催された。また、目黒競馬場は、昭和七年(1932年)第一回日本ダービーが開催された記念すべき地でもある。
 この碑は、当時の歴史を後世に伝え残すとともに第五〇回日本ダービーを記念して、日本中央競馬会、及び大鳥前元競馬場通り商店街振興組合のご協力により建立された。


銅像の馬は、トウルヌソル号
調べてみると、
『昭和初期に活躍して日本ダービー馬を史上最多の6頭輩出、日本競馬の黎明期に偉大なる足跡を残した大種牡馬
とあった。
世界の名馬列伝集 : トウルヌソル






バス停の名前にもなっている。





◆多摩台目黒歩道橋










目黒寄生虫館

こちらは以前中に入ったことがある。
が、hatena以前だね。
日記はmixiにあると思う。






大鳥神社

以前来たことがあるが工事で入れなかった。
2017/02/19 part5 目黒競馬場跡/大鳥神社/目黒新橋/権之助坂 - ovanの社会科見学





 この神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にゆかりがあるといわれるこの地に、 大同元年(806)創建された区内最古の神社です。 江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に書かれている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありました。祭神は日本武尊を主神とし国常立尊(くにとこたちのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)を合祀しています。
 毎年11月に開かれる西の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在も都内では有数の賑いをみせています。この市のいわれは日本書紀に「十月己西に日本武尊を遣わして、熊襲(くまそ)を撃つ」とあり、尊(みこと)の出発日が酉の日であったことから、おこったと伝えられています。
 毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町みこしが勢揃いします。 それとともに社殿では「太々(だいだい)神楽。剣の舞」が奉納されます。 11月の西の市には、「太々神楽・熊手の舞」 が神前で舞われます。
 境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガシ」の老木や三猿だけの延宝塔、 元禄時代 (1688~1703) や宝永年間(1704~1710)の屋根付庚申塔など5基の石造物もあります。また、俗に切支丹燈寵といわれる 「織部式燈籠(おりべしきとうろう)」や、天保6年 (1835) の西の市に神楽を奉納した記念碑などもあります。



大鳥神社のオオアカガシ・切支丹灯籠



大鳥神社のオオアカガシ

 大島神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく、薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特微からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は学術上貴重な樹木として、昭和三八年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は、現在でもオオアカガシ Cyclobalnopsis acuta (Thunb.)
Oerst. var. megaphylla Hayashi, var. nov. のタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。
 指定時に樹高約16メートル、幹周り1.6メートルあった本樹は、生育環境の変化等により昭和五O年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが、平成一四年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが、成功せず、平成二四年に指定解除となりました。
 ここに説明板を設置し、都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。




切支丹燈籠

 下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年、守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示しているものです。
もとは千代が崎(現在の東京都教職員研修センター付近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守(まつだいらとのものかみ)の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。
 竿石(さおいし)の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯龍で、キリシタンヘの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます。




楽殿



区内最古の大鳥神社

江戸期には目黒不動金比羅権現と並び”目黒の三社様”といわれた。天保の頃から伝わる太々神楽「剣の舞」「熊手の舞」は華麗で荘厳。毎年11月には酉の市が立つ。



鳥居







続く。