2020/05/26 中目黒散歩 03 三田用水跡/目黒区立田道住区センター三田分室/三田公園/目黒三田春日神社/茶屋坂/駐日アルジェリア大使館/駐日ポーランド共和国大使館

前の日記エリアから西へ進む。


◆三田用水跡

前の日記、日の丸自動車の敷地内に説明板があった。




かつてこの地を流れていた三田用水は、 寛文4年(1664)に中村八郎右衛門、磯野助六の両名が開いた三田上水を始めとしています。 この上水は三田、芝、金杉方面の飲料水とするため、玉川上水を下北沢で分水し、白金猿町までの2里ほどを流したものです。
 享保7年(1722 )8代将軍吉宗は、室鳩巣(むろきゅうそう)の上水が火事の原因になるという意見を採用し、三田上水を含め4上水を廃止しました。しかし、三田、上目黒、中目黒、下目黒の目黒4ヶ村をはじめ流域14ヶ村から農業用水として利用したいという願いが関東郡代(ぐんだい)に出され、享保9年(1724)に農業用の三田用水として再開されました。
 以後、三田用水は豪農等で組織された用水担合により管理されました。農業の他に水路が淀橋台とよばれる台地上を通るので、 大正末頃まで合地の下に水車を設置した製粉 精米にもさかんに利用されました。また、明治末頃からの目黒付近の工業化にともない恵比寿のビール工場の原料水や目黒火薬製造所(後の海軍技術研究所)の用水としても用いられました。
 戦後は急激な都市化により水質も悪化し、 わずかにビール工場の洗浄用水などとして細々と用いられていましたが、それも不要となり、昭和50年(1975)にその流れを止め、三百年にわたる歴史の幕を閉じました。
 下の石は三田用水の木樋の下に設置された礎石(下図のとおり)です。





◆目黒区立田道住区センター三田分室

区民用の会議室、音楽室などがあるようだ。
田道住区センター三田分室 目黒区




◆三田公園

公園内に下の説明板があった。



千代ヶ崎

 JR目黒駅近くの権之助坂上から恵比寿方面へ向かう目黒川沿いの台地は、かつて「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地で、その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。
 目黒区目黒一丁目、三田二丁目と品川区上大崎二丁目の区境あたりの地に、江戸時代、九州の肥前島原藩主松平主殿頭(とのものかみ)の抱屋敷がありました。2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があり、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた別荘がありました。
 屋敷地の一角 (現、目黒1-1付近)には、かつて 「千代が池」 という池かありました。これは南北朝時代の武将新田義興(よしおき)が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げた池と伝えられています。 千代ヶ崎の地名は、 この 「千代が池」が由来といわれています。





◆目黒三田春日神







◆茶屋坂

坂上



坂途中。



茶屋坂と爺々(じじ)が茶屋

 茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
 この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
 こんなことから 「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。




坂下。




 江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。





◆駐日アルジェリア大使館




名前は聞いたことはあるけれど、今一度の辺りにある国なのかわからないので、調べた。
北アフリカだったんだね。
アルジェリア - Wikipedia






◆駐日ポーランド共和国大使館









続く。