2020/06/09 代々木散歩 07 西参道口交差点/正春寺/諦聴寺/天神橋駅跡/銀杏天神社/新町駅跡

最後も玉川上水旧水路緑道を新宿駅まで。



◆西参道口交差点




◆正春寺





◆諦聴寺



木像聖徳太子立像

 この像は、頭髪を中央で左右に振り分け、顔のつくりも明らかにしない立ちすがたで神像を思わせますが、当初は両耳辺で髪を美豆良に結い、いま見るように柄香炉を手にしていたと考えられます。風化による木のやつれが全身に見られ、両手先や香炉のほか台座も近世のものに替わっており、保存状態が良好とはいえませんが、聖徳太子の十六歳の姿を表したという孝養像にあたります。
 木彫りによる太子孝養像は、鎌倉時代以降各地で盛んに造立され、なかには坐像や倚像もありますが、本像のような直立像が一般的です。そのすがたは、太子が父用命天皇の病気平癒を祈るものとされますが、中世になると浄土真宗の太子信仰と結びつき、彫像や絵像が多く作られます。本像はヒノキの一木造で、簡素な彫法から南北朝時代から室町時代にかかる頃に造られたとみられます。
 諦聴寺が四谷から現在地に移転するのは嘉永三年(1850)ですが、太子像はそれ以前から伝えられていたといいます。本像は、区内の真宗寺院に伝わる聖徳太子孝養像の稀少な作例であり、彫刻史のみならず信仰史の上からも貴重な作です。



茶室花雲

 花雲は、昭和八年(1933)に開催された万国婦人予供特覧会の際に、上野公園の竹の台会場の一角に特設された、二棟の茶 室のうちのひとつと考えられます。この茶室の制作者は、数寄屋師・木村清兵衛(三代目)です。
 その扁額は、近代の茶の湯文化を牽引した益田孝(鈍翁(どんおう))の揮毫によります。茶室の構成は、三畳台目・下座床(げざどこ)で、にじり口と貴人口が併設され、水屋と腰掛待合は一棟にまとめられています。意匠的に大きな特徴は、大阪府に所在する水無瀬神宮燃心亭(重要文化 財)を「本歌」とした「写し」であるということです。材料の仕上や組み合わせ、天井と屋根の構成などに数寄屋師・木村清兵衛の作風も認められます。茶室を構成する材料は、吟味きれた銘木・銘竹 などであり、いずれも希少で良質な材が使われています。
  本茶室は何度かの移築を行いましたが、最近の研究により造営さ れた経緯が明かとなりました。近代の茶の湯文化の興隆において中 心的役割を担った益田鈍翁と、著名な数寄屋師・木村清兵衛の関わ りは確かです。花雲は、数寄者と数寄屋師が協同し、歴史的な名席を独自に解釈しつつ新たな茶室を作り出すという、近代における和風建築の展開を物語る上でも貴重な茶室であります。



山門






◆天神橋駅跡

wikiに詳細が載っていた。
京王線の新宿駅付近の廃駅 - Wikipedia



玉川上水

 ここには、かつて神田上水とともに江戸の二大上水と呼ば れた玉川上水が流れていました。現在は暗渠となり、当時の 面影を偲ぶことはできませんが、各所に残る橋の欄干は玉川 上水の名残です。
  江戸時代初期、江戸の住民は神田上水と赤坂溜池の水を飲料水として利用していましたが、江戸市中の発展につれ水不足をきたしました。そこで、承応元年(1652)に玉川上水開設の計画が立てられたのです。同二年正月、幕府は庄右衛門・清右衛門兄弟に工事請負を命じました。ここに老中松平 伊豆守信綱を惣奉行とする、玉川上水開設の計画はスタート したのです。信網の臣安松金右衛門の設計に従い、多摩郡羽村に堰を設けて取水口とし、四谷大木戸まで約四十三キロの 開削水路を通し、そこから先は地下に配管(石樋・木碑)を敷設するという、当時としては非常に画期的な工法がとられま した。
 このほかに玉川上水は、江戸市民の飲料水供給にとどまら ず、灌溉用水や新田開発など武蔵野台地の発展にも計り知れない恩恵を授けたのです。





◆銀杏天神社

こちら、以前来たことがある。
2018/05/06 代々木散歩 05 祠/旧代代幡町燈篭/西参道駅跡/代々木緑道/銀杏天神社/歩道橋 - ovanの社会科見学










新町駅

wikiに詳細が載っていた。
京王線の新宿駅付近の廃駅 - Wikipedia




この近くから新宿駅まで続く地下通路に入った。
新宿駅でゴールして中央線で帰った。
今回も暑くてたまらなかったー(w
ほとんど玉川上水跡の緑の多いところだったのでここまで歩けたんだと思う・・・。