2020/06/20 代々木公園

こちらはすべて代々木公園内。


原宿門





案内看板





十四烈士自刃の碑



昭和二十年八月二十五日早暁 元代々木練兵場の一角なる此の処に於いて 塾長代行影山庄平翁以下十八歳の少年に至る十四名の大東塾々生 古式に則り一斉に壮烈極まりなき割腹自刃を遂げ 以て大東亜戦争の大難に殉じ祖国再建の尊き人柱に立つ

十四烈士共同遺書
清く捧ぐる吾等十四の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ

影山庄平翁辞世歌
こんとんをひらきて今や大地の始発の時と祈り行くなり
國うれふやたけ心のきはまりて静かなるかも神あかるとき




 十四烈士自刃当時 当地に代々木練套場であったが 米占領軍は進駐直後にこれを接収 将校宿舎ワシントンハイツを建設 日木人の立入を禁止した
 昭和二十七年講和条約が発効するや影山正治塾長はこの自刃現場の返還を求めたが交渉は難航した しかし諸方諸氏の献身的努力により 昭和三十三年に到り建立する碑の高さ大きさに制限を付して漸く許可となリ 翌三十四年この碑が建立れた
昭和三十九年東京才リンビックに当リ この全域はその逐手村として米軍より日本に返還され その終了後 東京都代々木公園を造成 開園 漸く日本国民の自由に参拝出来るやうになった
 当地は以上の如き経韓を有するが 建碑に当っては米軍進駐前に探取した血染の砂が碑の下に納のられてゐる





昭憲皇太后天喪義葬場殿史址碑



 大正三年(一九一四)四月十一日、昭憲皇太后明治天皇の皇后)が崩御になった。
 五月三日から三十日にかけて大喪の諸儀が執り行われ、二十四日には代々木練兵場(現代々木公園)において「葬場殿の儀」が行われた。
 入口から葬場殿まで約180mの通路が設けられ、通路の左右には参列者らが待機する長さ約145m、幅約27mの大幅舎(屋根付きの切妻風の建物)が建てられるなど、二重の垣に囲まれた葬場殿は昭憲皇太后のご生涯を偲ぶに相応しい偉容であった。
 翌大正四年四月十一日、昭憲皇太后一年祭にあたり、伏見桃山東陵の遥拝式が東京府主催にて当地で行われ、その後、葬場殿の跡地を保存し、皇太后のご事績を後世に伝えてゆくため、東京府より碑の建立申請がなされた。
 大正六年十二月、陸軍より約3.6㎡の用地が東京府に引き渡され、翌七年四月に碑が完成した。





閲兵式の松



 代々木公園がかつて陸軍の代々木練兵場であった時代、観兵式が行われた。親閱に際し天皇陛下が傍らに立たれたと伝わるこの黒松は、「観兵式の松」 と呼ばれている。高さは約13m、幹回りは約12.5m。
 この地は、明治四十二年(1909) 、明治天皇ご在位中に代々木練兵場となった。
 大正六年(1917) 十月三十一日には、大正天皇天長節(天皇誕生日) 祝日観兵式のため初めて行幸されている。また昭和天皇は、皇太子時代 の大正九年十月三十一日の天長節祝目観兵式 のほか、同十年十一月十六日から二十日にかけて東京・神奈川で行われた陸軍特別大演習の折の観兵式に統監代行と L て親閲された。昭和の時代になると、陸軍始などの観兵式の折、昭和天皇はたびたび当地 へ行幸されている。
 往時とほとんど变わらぬ 「閱兵式の松」技振りは、天皇陛下のご事績を偲ぶに相応しい風格を今も湛えている。



ケツアルコアトゥルの像



作品名 ケツアルコアトゥル
作者  フェデリーコ シルバ
制作年 1988年

 この彫刻は1990年11月、日本国とメキシコ合衆国の友好親善のシンボルとして、メキシコ合衆国から見京都に贈られたものです。
 古代メキシコ神話の文化神ケツァルコアトゥルの化身「羽毛のある蛇」を表しています。





しあわせの像



 放送は人類英知の所産であり社会、個人の生活へ空からしあわせをふりそそぐ文化の慈雨である
 國民共有の財産としてその連用を過たず事業発展に尽瘁された先達の功労を汎く世に顕わさんがため恰し電通は創業71周年を迎えたのを機に微哀を表してここにしあわせの像を建設し永く鑚仰の誠を捧げんとするものである





國土緑化運動の碑



 大戦は国土の荒廃と森林緑地の喪失を招き、災害を続発し水源を枯渇せしめ生活の潤いを奪った。有志はその参状の一刻も放置できないことを見、相はかって国土緑化推進委員会を結成してここに20年、幣原喜重郎氏以来歴代の衆議院議員を委員長に、故村上竜太郎氏を始めとする多数関係者は、国民の繁栄は緑とともにあるという理念のもとに、全国土の緑化を提唱して献身的努力を重ねてきた。
 山に木を植え都市を緑で包むこの国民運動は全国にわたって着々と成果をあげ、現に明治百年記念事業として国が明治の森国民の森の造成を進めているほか、郷土の森県民の森等が各地に育ちつつある。いま東京都が代々木の地に森林公園を開設するのを機とし、その一角を得てこの碑を建てるのは、顧みて国土緑化運動の由来を記念し、その力強い発展をさらに将来に期するためである。





オリンピック記念宿舎



 1964 (昭和39)年、東京オリンピック(第18回オリンピック競技大会)が開催され、その時の選手村の跡地に代々木公園がつくられました。
 この建物は、当時各国の選手が利用した宿舎のひとつでオランダの選手宿舎として利用され、現在は東京オリンピックを記念して保存されています。




日本航空発始之地記念碑



 1910年(明治43年) 12月19日、 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式復葉機を操縱して4分間、 距離3.000m、高度70mの飛行に成功した。
 次いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式单葉機により1分間、 距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。




日野熊蔵/徳川好敏 胸像


日野熊蔵

限りなき大空
限りある人生
限りなき大空 限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ



翁は熊本の産 豪放磊落 英仏独語に通じ 数理に秀で 選ばれて独逸に飛行機操縦を習得し 1910年12月19日 此地に於て発動機の不調を克服して グラーデ式を駆り 1分間1000米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである



飛行機唱歌
勇み立つたる推進機の
   響きは高し音高し
時こえて よけれ放てよと
   弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
   勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
   かの大空にありと知れ

どんな曲か探してみたが無かった・・・
調べ方が足りないか。。。。



徳川好敏

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治43年(1910年)12月19日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦し わが国の初飛行を行い
  飛行時間 4分
  飛行距離 3000米
  飛行高度 70米
の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった



至誠通神



展望台



展望台から見た噴水



代々木公園沿革

 この附近は、武蔵野特有の台地で、昔は雑木林の散在する景色のよい所であったといわれ、近世になり、幕府や諸社寺の領地となりました。
 明治時代の末には、代々木練兵場となり、演習などが行われていましたが、明治20年(1890)米軍の宿舎用地として接収され、ワシントンハイツと呼ばれました。第18回オリンピック東京大会開催のとき、日本に返還され選手村となり、終了後は森林公園として整備されました。
明治42年(1909)  代々木練兵場設置
明治43年(1910)  日本で最初の試験飛行に成功
昭和20年(1945)  第18回オリンピック東京大会選手村開設
昭和39年(1964)  代々木公園造成に着手
昭和46年(1971)  代々木公園完成





以上。