2020/06/23 原宿散歩 03 長安寺/妙圓寺/原宿神宮前商店会・村越の水車跡/原宿通り/東郷神社/セコム・原宿警察署

東京メトロ銀座線外苑前駅周辺エリアから西へ進み、原宿駅東側エリアを散策。


長安






◆妙圓寺(妙円寺


原宿発祥之地

現地には説明が書かれたものがなかった。
調べたら特にここが発祥というわけでもなさそうだ。
原宿発祥之地 - 発祥の地コレクション


毘沙門堂



穏原小学校旧跡
 この道路の向かい側に、かつて穏原小学校がありました。
 この学校は、妙園寺などの寺小屋の児童を収容し、穏田・原宿両村の連合公立小学校として、明治十四年(1881)に当時の原宿七十番地に開校したもので、当時の児童数は二十四名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、同二十一年に原宿二百三番地であるこの場所に校舎を新築し、移転してきました。
 その後、校地が再び狭くなり、同三十三年に隣地である原宿二百二番地を加えて校舎を新築しました。
 この間、大正十二年(1923)には分教場 (現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和二十年(1945)五月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、同二十一年三月、六十五年にわたる歴史の幕を閉じました。この間にはぐくまれた建学の精神は、多くの卒業生によって受けつがれております。



自昌院自筆法華経 (じしょういんじひつほけきょう)八巻 附函
 妙園寺が所蔵する法華経八巻は、広島藩二代藩主浅野光晟(みつあきら)の正室である自昌院(満姫(まんひめ))により、万治二年(1659)二月三日に写経されました。
 巻子本(かんすぼん)に仕立てられたこれらの経典は、見返しに箔地に日輪と月輪及び文殊普賢菩薩が描かれ、鳥の子紙を使用した写経料紙には、金泥(きんでい)による優美な装飾が施されています。
 自昌院は、加賀藩三代藩主前田利常(としつね)の娘として、元和五年(1619)十二月十五日に金沢で誕生しました。母親は、徳川秀忠の娘珠姫(たまひめ)です。その関係からか、満姫は徳川家光の養女となって、寛永十二年(1635)九月に浅野光最に嫁ぎました。満姫は、万治元年(1658)十月十二日に実父利常の死去をうけて剃髪したようで、自昌院と号しました。自昌院は熱心な日蓮宗信者で、維司ヶ谷の鬼子母神堂や広島の菩提寺となる自昌山國前寺(こくぜんじ)を建立しています。
 法華経は、自昌院の写経にみられるように、日蓮宗の根本経典であるばかりでなく、女性の成仏を説く経典として、中世以来女性に信仰されてきました。
 自昌院による日蓮宗妙園寺への法華経の寄進は、自身が日蓮宗信者による者であるとともに、女性ならではの法華経信仰を持っていたからと
考えられます。
 妙園寺は、安房小湊の本山誕生寺の末寺で、山号は蓮光山(れんこうざん)です。寛永四年(1627)に円成院(えんじょういん)日光が四谷千日谷に草庵を営んだのが始まりとされています。その後、日寛が当寺を再興し、宝永三年(1706)に現在の地に移転をしました。
 本法華経は、保存状態が極めて良く、経函(きょうばこ)などを含めて自昌院が奉納した当時の姿を今に伝える貴重な文化財です。


山門






◆原宿神宮前商店会・村越の水車

商店街♪





村越の水車跡、google mapのマークの位置が上の写真のところ辺り。
WEBで調べるとこの辺りは隠田といわれていたようで、「村越水車」があったと書いてあった。
暗渠シリーズ 第3回目 渋谷川 ➇ | 江戸散歩のブログ







◆原宿通り

商店街♪








東郷神社


由緒沿革

東郷平八郎命は弘化四年(1847)薩摩藩士東郷吉右衛門の四子として鹿児島市鍛冶屋町で生まれ昭和九年(1934)五月三十日八十八歳で東京麹町三番町で薨去なされました。
明治四年(1871)二十四歳のとき英国留学七年間海軍士官としての修業をつまれました。以来軍務に精励し同三十七・八年(1904・5)の日露戦役に連合艦隊司令長官として艦隊を指揮し特に同三十八年五月二十七・八日の日本海海戦で露国のバルチック関来を迎えて旗艦三笠にZ旗を掲げてこれを打ち破り世界海戦史上名高い完全勝利をなし遂げ国難を救ったことは有名であります。大正三年(1914)東宮御学問所総裁として時の皇太子天皇教育の重要な責任を果たされ明治、大正、昭和と三期に至誠一貫臣節を全うされました。その功績に対し元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵の栄誉が贈られ高い人格と陰影なきまごころの人として日本だけでなく世界の人々からも「アドミラル大東郷」として尊敬されるようになりました。昭和九年九月財団法人東郷元帥記念会が設立され全国民崇敬者の協賛により同十五年五月(1940)創建鎮座祭を執行し府社とんり別格官幣社列格寸前の同二十年(1945)五月戦災により一切炎上しました。戦後は仮殿に奉斎、同三十九年(1964)の祭神三十年祭を目標として同三十三年五月復興奉賛会の設立となり全国崇敬者の絶大なる協賛を得て御社殿復興同三十九年五月二十七日御遷座祭を執行し二十八日竣工、奉祝祭並に三十年祭が盛大に斎行されました。同五十九年(1984)は祭神の五十年祭並に復興二十年記念祭に相当するので数年を費して神符授与所、透塀、西参道燈籠四基、北参道鳥居再建、池の改修、井戸新さく、旧東郷邸より移築の土蔵の再建等境内整備を進め、同五十九年五月に五十年式年例大祭、次いで命日祭・五十年墓前祭(於多磨霊園)が厳修されました。
平成二年(1990)には御鎮座五十年記念に当り崇敬者各位の豫金によってお鎮座五十年記念事業として御社殿改修・神池の整備・社務所・和楽殿の回収・新築・記念出版等を完遂しました。


案内図


神池


海の宮


第一駆逐隊碑

第一駆逐隊は日露戦争直前の明治三十六年(1903年)我国最初の駆逐隊として編成され 日露戦争に参 加ののち 大正九年迄艦隊第一線で活躍後 一旦 解 隊された  大正十一年(一1922年)改めて第一駆 逐隊が野風 沼風で編成され 続いて波風 神風が加 わり 昭和初期まで 聨合艦隊の新鋭駆逐隊として活 躍した その後は主に大湊(むつ市)を基地として オホーツク海及び千島列島 カムチャッカ半島沿岸の 漁業保護に尽力その発展に大きな力となった  大東 亜戦争では北はアッツ キスカ方面から南は印度洋ジ ャワ方面まで幾多の戦闘に参加 野風 沼風は勇戦空 しく沈没したものの神風 波風は一部損傷を受けたが 最期迄戦い抜き 神風はシンガポールにおいて 波風 は瀬戸内海で終戦を迎えた  この間渡辺保正司令 山下喜義沼風艦長外五百四十名の方々が国に殉じられた  この燈篭は青春を国に捧げ 若くして戦に殉じた 勇敢な戦友と 最後まで海上で戦い抜き 戦後の復興 に尽力 物故した乗員の霊を慰め 我が国永遠の平和 を念願して 駆逐艦神風会が 駆逐艦波風会有志及び 司令各艦乗員御遺族ならびに この主旨に賛同の方々 の協力をえて建立 奉納したものである



海軍經理學校正門敷石



 明治七年十月、芝山内天神谷に設けられた海軍會計學舎は幾度かその名稱を変え明治四十年に海軍經理學校となった。
 この間校舎も数度位置を変えて、明治二十一年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和七年同じ築地の隅田川河畔(現在の勝関橋右岸)に移築された。
 昭和二十年九月、七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戰力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戰役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献をしている。



海軍特年兵之碑



香淳皇后御歌
やすらかに
 ねむれとぞ思ふ
君のため
いのちささげ志
 ますらをのとも



昭和の白虎隊
海軍特年兵の說明が碑の
東側に記されています
是非御覧下さい



あゝ特年兵
作詞  山口 純
作曲  三島秀記
特代はどん に 変わっても
胸にながれる 魂は
いついつまでも 咲き香る
真実の平和を 祈りつゝ
燃えた生命よ あゝ特年兵

戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のため の 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し



海軍特年兵
 あゝ十四才 大日本帝国海軍史上 最年少の勇士である 少年兵より更に二才も若く しかも特例に基ずいたものであったため 特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称された
 昭和十六年 帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを創設した
 太平洋戦争の時局下に 純真無垢の児童らが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた
その数は十七年の一期生三千二百名をはじめ 二期生四千名 三、四期生各五千名 終戦の二十年まで約一万七千二百名におよんだ
横須賀 呉 佐世保 舞鶴の四鎮守府に配属されて活躍した
戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された
だが反面 幼いだけに犠牲者も多く 五千余名が 南溟に或は北辺の海に短い生命を散らした
しかし 特年兵の存在は戦後 歴史から忘れられていたため 長い間 幻の白虎隊という数奇な運命をたどっていた
このままでは幼くして散った還らぬ友が余りにも可哀想であり その救国の赤誠と犠牲的精神は 日本国民の心に永遠に留め 讃えねばならない
英霊の声に呼び覚まされたかの如く 二十五回目の終戦記念日を迎えた四十五年 俄に特年兵戦没者慰霊碑建立運動が高まった
戦火は消えて 二十六年の長い歳月の後に 多くの人たちのご協力によって碑が こゝ東郷神社の聖域に建立されるに至った
そして幻の特年兵はようやく蘇った
そのうえ 特年兵たちが 国の母と崇めた皇后陛下の御歌を碑に賜わり母と子の対面の象徴として表わしこゝに刻む
 除幕式には 特年兵にもゆかりの深い高松宮両殿下の御台臨を仰ぐ栄誉に浴した また 全国の生存者が亡き友の冥福を祈るため それぞれ各県の石四十七個を持ち寄り 碑の礎に散りばめた
 吾々は 今は還らぬ幼い戦友の霊を慰め 永遠に安らぎ鎮まらむことを願うと共に 特年兵を顕彰し その真心と功績を後世に伝え 祖国繁栄世界平和を祈願しながら尽力することをこゝに誓う



東郷蔵



昭和二十年三月の戦災に依り麴町三番町の東郷邸も土蔵一棟を残して一切焼失しました
同二十三年五月麴町区はこの土蔵を東郷神社境内に移築して三十数年が経過し損傷も激しくなったので元帥の五十年祭に当り従前の蔵の
姿を模して少しく大きく不燃建物こて新築した記念の蔵です




潜水艦勇士に捧ぐ

 太平洋戦争中百二十餘隻の潜水艦と共に戰没された一万餘人の乗員諸君 特殊潜航艇及び 回天決死隊諸君 また諸公試 演練に殉難された諸君 諸君の遺骨は海底深く沈んで之を回収 する途がない
しかし それは国難に赴いた諸君の忠誠が そのまま其戰場に在ることを意味する 民族の急 を救うべく戰った犠牲の精神は永えに其処に活きている 
 残された潜水艦関係の吾等は個人と法人と併せて幾千常に諸君の英霊の坐する海底を見つめている 願わくは日本国民の全部も ありし日の諸君の勇姿と奮戰激闘の光景と護国の屍となった戰場とを緬想して敬弔の誠を伸ぶると共に 祖国再興の心の糧とすることを祈願して巳まない
 茲に曽て戰友潜水艦建造関係者外有志一同相計り小碑を東郷神社の靈域に建立して諸君不滅の忠魂に捧ぐ



搭載用 魚雷模型
旧海軍館(平成四年解体)の庭にあったもので実物に似せてあるが寸法は実魚雷より小さい。
ーー実魚雷の寸法ーー
巡洋艦駆逐艦用 径61㎝ 長さ8.5m
潜水艦用     径53㎝ 長さ7.2m
航空機用     径45㎝ 長さ5.7m



楽殿



鳥居



参道入口







◆セコム・原宿警察署

手前が「セコムトラストシステムズ」本社。
奥が原宿警察署。




逆から。








続く。