2020/06/27 大井町散歩 05 青雲稲荷神社/仙台坂/泊舩寺/仙台坂のタブノキ/海晏寺/幸稲荷神社/石碑

青雲稲荷神社からはまた西へ進み京急のガードをくぐる(何回目?w)
仙台坂辺りをウロウロした後またまた京急のガードをくぐって線路の東側へ。



◆青雲稲荷神社






◆仙台坂

坂下。



坂上



 江戸時代(1603~1867)に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守(むつのかみ)の下屋敷があったことから、東大井四丁目と南品川五丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。
 しかし、現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。






◆泊舩寺(はくせんじ)



木造服部嵐雪坐像(もくぞうはっとりらんせつざぞう)
 像高29センチメートル、寄木造で差し首、羽織を着て端坐し、両手を腿上にのせて右手は物を握る形、頭部以外は刀痕(とうこん)を残す。制作者・年代は不明であるが、江戸時代後期のものと思われ、秀作である。
 嵐雪は承応三年(1654)、淡路国(あわじのこく)に生まれたと伝えられる。幼い頃江戸に出て新庄隱岐守(おきのかみ)に仕えたが、のち浪人となり、延宝年間(1673~80)、芭蕉 の門に入り俳諧師とな った。蕉門十哲の一人で、其角(きかく)とともに蕉門の双壁上と いわれる。芭蕉も「草庵に桃桜あり、門人に嵐雪・其角あり」と語ったほどの人物であった。
 宝永四年 (1797)、五十四歲で没した。

木造宝井其角坐像(もくぞうたからいきかくざぞう)
 像高27.5センチメートル、寄木造で差し首・円頂・玉眼で頭を左方に向けて凝視する。左膝を立てて坐し、右手は腿に置いて如竜(にょりゅう)を執る姿勢である。
 像底に「文化五辰年(たつどし)三月廿二日得之」の墨書があるところ から、文化五年(1808)に制作されたことがわかる。
 其角は寛文元年(1661)、町医師の子として江戸堀江町に生まれた。十七歲のとき蕉門をたたき、俳諧に没頭して頭角をあらわ し、嵐雪とともに蕉門の双璧としてたた元られた。
 宝永四年(1707)、四十七歳で没した。墓は二本榎の上行寺にある。



木造白牛禅師坐像(もくぞうはくぎゅうぜんじざぞう)
 像高32.6センチメートル、寄木造で黒色仕上げ。僧形(そうぎょう)で玉眼(ぎょくがん)、正面を凝視し、両手を法衣に包んでいる。本像は品川妙国寺の門前に住んでいた仏師大場祐造(おおばすけぞう)が刻んだもので、天保十年(1839)の制作である。
 文化年間(1804~17)、泊船寺内の芭蕉堂に山奴(さんど)という俳人が住み、そ の弟子景山(けいざん)(大井村の名主) とともにこの地域の人たちに俳諧の道をひろめ、 その門に入る者数百人に及んだという。山奴はのち出家して白牛禅師(はくぎゅうぜんじ)となったが、本寺が俳句寺として有名になったのも、彼の力に負うところが大きい。

木造松尾芭蕉坐像
附 芭旅姿版木
 像高38.3センチメートル、寄木造で差し首、胴体は一本造で顔面以外は刀痕(とうこん)を残す。宗匠頭巾(そうしょうずきん)をかぶり、正面を凝視し、道服を着て袖の中に叉手(さしゅ)し、袖先からは僅かに数珠を露(あら)わしている。本像は幕臣石河積水(いしこせきすい)が深川の芭蕉庵の柳の木で刻んだものといわれる。
 芭蕉は正保元年(1644)、伊賀上野に生まれ、 のち江戸に出て詩歌の道に入った。深川に芭蕉庵をむすんで俳諧に精進し、また旅に明け暮れて多くの名句を残した。俳句を完成した人で、嵐雪(らんせつ)・其角(きかく)・去来(きょらい)など数多くの門人を育てた。
 また狩野嘯川(かのうしょうせん)作の芭蕉旅姿版木は、桜材で形状は縦48.7、横27.8センチである。






◆仙台坂のタブノキ

仙台坂から。



反対側から。



 本樹は目通り幹囲4.6ㄨートル、樹高20ㄨートルで、推定樹齡約300年、樹勢旺盛で美しい樹容を見せている。
 タブノキは一名イヌグスともいい、クス料に属する常緑の高木で、熱帯から暖带に生育する。我が国では四国・九州・沖繩に多く、東京でもかつては海岸沿いに随所に見られたが、震災・戦災等でその も少なくなった。区内では鹿島神社や滝王子稲荷神社等にも古木が見られる。





◆海晏寺


白井鳥酔墓

 鳥酔(~1769)は上総国埴生郡地引村に生まれた。名は信興といい、喜右衛門と称していた。生家はかなりの資産家であったが家を譲って江戸に出て長谷部柳居に従って俳諧を学んだ。はじめ牧羊と号し、のち露柱と号した。さらに松露庵2世を嗣ぎ、南浦松原庵および大磯の鴨立庵に住した。
鳥酔は天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠として名を世人に知られた。著書には「稲ふね」がある。明和六年四月四日に没した。


春秋庵白雄墓

読めない・・・・。

春秋庵白雄をwikiで調べてみた。
『加舎 白雄(かや しらお、元文3年8月20日(1738年10月3日) - 寛政3年9月13日(1791年10月10日))は、江戸時代の俳人。諱は吉春・競、通称は五郎吉、別号は昨鳥・春秋庵・白尾坊、露柱庵など多数。父の祖母方の姓をとって「平田忠次郎」と名乗ったこともある。 与謝蕪村、大島蓼太などと共に中興五傑及び天明の六俳客の一人。鴫立庵の庵主。三宅嘯山の『俳諧古選』や五升庵蝶夢の『蕉門俳諧語録』に先駆した『俳諧寂栞』が、平易な俳論として世に知られている。』
とあった。
『品川の海晏寺に墓がある。』
とのことなので、加舎 白雄で間違いないと思う。
加舎白雄 - Wikipedia



他に「岩倉具視墓」があるとのこと。
中には入れなかったので見ることができなかったが、お寺の反対側から柵超しに少し見えた。
大きなお墓がたくさんあり、そのうちの一つだろうと思われる。


鐘楼


山門





◆幸稲荷神社








◆石碑

(左)鮫洲正観世音菩薩道場 石碑
(右)贈太政大臣岩倉公御墓参拝道 石碑



ここから海晏寺の参道ということになるのだろう。





続く。