2020/07/02 品川区広町散歩 05 東海寺大山墓地 

情報量が多いため独立。
前の日記、官営品川硝子製造所跡から線路沿いに行ったところにある。



◆沢庵(たくあん)墓



 沢庵(1573~1645)は、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭(そうほう)、沢庵は道号但馬国出石(いずし)(現、兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、慶長十四年(1609)大德寺の一五三世住持(じゅうじ)となった。
 寛永六年(1629)紫衣(しえ)事件で流罪となり、出羽国上山 (現、山形県上山市)藩主土岐頼行(ときよりゆき)に御預けとなる。三年後許され、その後は三代将軍德川家光に重用される。寛永十六年(1639) 家光によって創建された品川、東海寺の開山に迎えられ、晚年を送った。正保二年(1645)十二月没、七十三歳。
 沢庵は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学(じゅがく)に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道に造詣が深かった。


紫衣事件wikiで調べてみた。
紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件。』

『紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。 』

とあったので、幕府が紫衣を禁止すると朝廷が困るということだね。
幕府が押し切ったので朝廷より上の立場になった事件といっていいようだ。
沢庵はこれに反対したので流罪となった。







賀茂真淵




こちらの碑が建っているだけで、説明板などは無かった。

wikiで調べた。
『賀茂 真淵(かも の まぶち)は、江戸時代中期の国学者歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した。』
とあった。


出身は浜松でそちらには記念館が建っているとのこと。
賀茂真淵記念館【浜松生まれの国学者、賀茂真淵】


人形町付近を散歩しているときに「賀茂真淵県居の跡」を巡ったことがある。
2017/06/01 人形町散歩 04 明治座稲荷/明治観音堂/明治座/浜町緑道/笠間稲荷/賀茂真淵県居の跡/富沢稲荷 - ovanの社会科見学







◆井上勝墓



初代鉄道頭 井上 勝1843(天保14)年~1910(明治43)年
“鉄道の父”と称される井上勝は、 萩藩士の三男として生まれた。 15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年井上馨伊藤博文らとともにイギリスに密航し、 鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872 (明治5)年、新橋· 横浜間の鉄道を完成させた。その後、 鉄道局長、 鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。 外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓所として東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。

確かにここは電車の音が絶えることが無かった。






熊本藩家老米田家墓所

この墓所は、旧肥後熊本藩細川家家臣及びその一族の墳墓地で、第十八代细川家当主細川護熙殿より平成二十三年五月宗教法人東海寺へご寄附して頂いたものです。


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島倉千代子

略歴をざっと見てみたんだけど、殺されそうになったり借金の保養人になって相手に逃げられたり・・・・・。
ほんとうに「人生いろいろ」の人だったんだね。




東海寺大山墓地

沢庵和尚墓(国指定史跡)
賀茂真淵墓(国指定史跡)
渋川春海墓(品川区指定史跡)
西村勝三墓
井上勝墓

とあったが、渋川春海墓、西村勝三墓が見つけられなかったので調べてみた。

渋川春海
『渋川 春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい、寛永16年閏11月3日(1639年12月27日) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日))は、江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士神道家。幼名は六蔵、諱は都翁(つつち)、字は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井、さらに渋川と改姓した。 』
『墓は東京都品川区の東海寺大山墓地にある。』
渋川春海 - Wikipedia


西村勝
天保(てんぽう)7年12月9日生まれ。西村茂樹の弟。下野(しもつけ)(栃木県)佐野藩士。脱藩して商人に転じ,鉄砲,弾薬の販売で資産をきずく。明治3年東京に伊勢勝(いせかつ)製靴工場,製革工場(のちの桜組)を創業,また官営の耐火煉瓦(れんが)工場などの払い下げをうけ品川白煉瓦として発展させた。明治40年1月31日死去。72歳。通称は伊勢勝。』
西村勝三(にしむら かつぞう)とは - コトバンク

リーガルコーポレーション
『1870年(明治3年)に日本初の製靴会社「伊勢勝造靴場」を設立した実業家・西村勝三(西村茂樹の弟)が中心となり、1902年(明治35年)1月21日、東京府東京市京橋区鎗屋町(現在の東京都中央区銀座)に「日本製靴株式会社」を設立、これを創業とする[1]。大倉組皮革製造所(大倉喜八郎)、桜組西村勝三)、藤田組皮革製作所(藤田伝三郎)、福島合名および東京製皮のうち、それぞれの製靴部門を各社から切り離し、統合したものである』
リーガルコーポレーション - Wikipedia




入口

本堂が無いのだとばっかり思っていたが、新馬場駅近くにあるとのこと。
だいぶ離れていたところにあるんだね。
もともとは広大な敷地を誇ったということなので、本来なら一緒だったのであろう。




続く。