2020/07/07 南品川散歩 05 品川神社

情報量が多いので一つにした。
建て替え工事中で見られなかった場所もあったので以前の写真も使う。



◆社殿

工事中でした・・・・・。



2013/10/28 撮影。





◆由緒

今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(1187)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)を当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)にニ階堂道蘊(どうりん)公が、「宇賀之売命(うかのめのみこと)(お稲荷樣)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478)に、太田道灌公が「素盞嗚尊(すさのおのみこと)(天王樣)」をそれぞれお祀りしました。
慶長五年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗(てんかひとなめ)の面)・神輿(葵神輿(あおいのみこし))などを奉納されました。
また、寛永十四年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全了幕府が賄う)」となり、元禄七年(1694)・嘉永三年(1850) の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(1868)十一月には明治天皇樣が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために当社を含んだ都內の十の神社を「准勅祭(じゅんちょくさい)神社」と定められ、 御勅使(ごちょくし)が御参拝になられ御祈願をされました。
大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、 社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。





◆祖霊社





◆阿那稲荷神社






◆阿那稲荷社



左から・・・
八百萬神社」「大国主恵比寿神社」「天皇白龍辨財天社」


稲荷神社


一粒萬倍の御神水



 万物は「天・地・水」の恵みを受けて生成化育し、米は一粒の種より薦倍の稲穂となる。
 当稲荷社は「上社」が「天の恵みの霊」を「下社」が「地 の恵みの霊」と「御神水」をお祀りする。
 家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの水をそそぐが吉。
 また、持ち帰りて家・店の入口・四隅にそそぎ、清く明るき心を持って暮らし・商売するが吉。
 そそぎし銭の一部は門前・北品川の商家にて使用するが吉。





境内社

阿那稲荷社の近くにあった小さな祠。





御嶽神社






◆包丁塚



抑もここ品川の地は 往昔より江戸出入の要宿にして 近代となりてその地域広大となるも、まことに殷賑をきわめ、ゆえに調理をなりはいとする店多く、またそれらに使用されし包丁数知れぬなり。
このたび品川区鮨商組合連合会発足二十五周年を記念し、ここ縁りの地品川神社の神域に包丁塚を建立、調理に役し、使い古されし数多包丁を納め、とわにその労を謝すと共に、同じくそれら包丁により調理されし鳥獣魚介の類、はた又蔬菜等を慰霊し、併せて業界の発展を期し、と
こしえに連合会の隆昌を願うものなり。



※蔬菜(そさい)とは、本来は栽培作物を指す語。ただし、今日では慣用的にも学問的にも「野菜」(やさい)と同義となっている。
蔬菜 - Wikipedia





◆祝八名勝入選記念碑



此の碑は中央に位置する心棒を昭和七年に当品川神社が東京八名勝の第三位に入選した記念に吾々の先人が時の協賛者と共に建立したもので丁度六十周年の節目を期に常夜灯と記念碑を建立し品川神社の敬神の昴揚と境内の景観に粋を添え先人の鎮魂の意も含め更に社会に役立つ心の地形をなし人の和を基本としながら江戸町火消の永い歴史によって培われた伝統文化の灯を消す事なく之を後世に伝承せんとするものである。





◆神楽殿





◆江戸・東京の農業 品川ネギとカブ

 品川は江戸湾に面し、中世以来の港町、宿場町として栄え、町をささえる漁業や農業も盛んでした。とくに、農業は、目黒川、立会川流城の低湿田地帯と荏原台地に広がった畑地で、年貢のための稲作を中心に麦や雑穀を作る粗放的農業が行われていましたが、野菜は荏原郡の中でも最も早く産地として発展しました。
 江戸にネギが入ったのは天正年間 (1573~92) に大阪方面からの入植者によって、砂村(現在の江東区)で栽培されたのが始まりですが、品川も同じで、入植者が持ち込んだネギの栽培は品川宿の周辺から広がり「品川ネギ」 として産地化しました。
 また、文化元年(1804)に著された『成形図説』には越冬用漬物として栽培された長カブ「品川カプ」が記され、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、品川ネギ、大井ニンジン、 戸越のタケノコが名産として記されています。
 その後、江戸市中へ出荷する野菜の生産地は江戸市街地の発展により、大井、大崎地区を中心に移っていきました。





板垣退助の墓

2013/10/28 撮影。
今回工事している先にあったので見られなかった。



2013/10/28 撮影。
 板垣退助は、天保八年(1837)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(1868)に参加して功績をあげた。明治七年(1874)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(1881)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧かせた。明治二十九年(1896)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(1900)に政界を引退した。大正八年(1919)に亡くなり、この地に葬られた。



2013/10/28 撮影。
『板垣死すとも自由は死せず』



2013/10/28 撮影。





浅間神社



品川神社富士塚
 富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山ができな ぃ講員のために造った築山である。
 品川神社富士塚は、明治二年(一八六九)、北品川宿の丸嘉講社の講中三百人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治五年に再築し、大正十一年(1922)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。
 江戶後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。

品川神社富士塚山開き
 每年七月一日に近い日曜日に、講員一同が白装束で浅間神社神前で「拝み」を行う。
 その後、はだしで富士塚に登り、山頂の遥拝所(ようはいじょ)や小御嶽の祠でも「拝み」をして下山し、社殿にもどってから平服に着替える。
 かつては盛んだった行事であるが、現在も行っている富士講はたいへん少ない。






富士塚



入口





頂上




頂上からの風景



頂上からの風景

2013/10/28 撮影。





◆ぶじかえる





◆大黒天

右下に「しながわ百景」
品川神社品川神社例大祭<6月>、品川神社の太太神楽





◆鳥居






続く。