2020/07/11 北品川散歩 02 海雲寺/品川寺/幕府御用宿「釜屋」跡/保土ヶ谷宿の街道松/関宿の街道松/竹内医院/あおよこ

青物横丁駅から旧東海道沿いに北上する。



◆海雲寺



千躰荒神(せんたいこうじん)堂



千躰荒神堂奉納扁額
 千駄荒神王は火と た台所の神としても有名である。
 堂内に懸けられている扁額は信徒の奉納によるものであり、全部で二十七面ある。文字額及び雌雄二鶏図が多く、格天井の中央に龍の図が、その周りに 纏(まとい)図が描かれている。
 文久元年(1861)作の雌雄二鶏図は、ガラスの上に彩色された貴重な資料であり、また、昭和十年に奉納された浪曲家廣澤虎造夫妻による文字額もある。




お台所の守護神
古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがございます
荒神様はお台所で一番大切な火と水を お守り下さる神様であります
それでお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされています
品川の千躰荒神は江戸時代から竈(かまど)の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰され てまいりましたが 今から去る三百余年前の島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年18才で出陣なさいましたが肥前天草の荒神ヶ原にありました荒神様にお詣でになり必勝祈願をなさって出馬しました所 甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れその行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思はれるすさまじさで 流石の暴徒も敵し得ず鎮定しました
以後、鍋島家ではこの尊像を守護なさいまして東都高輪二本榎の別荘に遷座し 篤い信心にもとに お祀りしてありましたものを因縁あって明和7年寅3月に当山に勧請し奉ったものであります
それからはあらゆる階層の人々の参詣も多くなり ついに江戸年中行事の一つにもなりこの尊像を信仰する人々の受けました霊験利生は数えきれないものがあります


明王


鐘楼



平蔵地蔵

平蔵地蔵の由来
 江戸の末1860年頃、鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた三 人連れの乞食がいた。その一人平蔵は或る日、多額の金を拾ったが落とし主を探し、当然のことと して金を返し、お礼の小判を断った。そのことを知らされた仲間の者は金を山分けすれば三人とも 乞食を止めて暮らせたのにと腹をたてて、正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった。これを聞いた金の落とし主である仙台邸に住む若い侍は、平蔵の遺体を引きとり、青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、そこに石の地蔵尊をたて、ねんごろに供養しつづけた。
 明治三十二年十月、京浜電車が開通することになったが、生憎その線路に地蔵尊の土地がかかり、 時の海雲寺住職横川得諄和尚が、菩薩のような功徳のある君子平蔵を長く社会の木鐸たらしめんと、 願望して当寺境内に移してもらい回向した。
 いつの世も人は利害得失を先とし他人の迷惑を考えず、金銭のために大切な人の命さえとる者がい て憂慮にたえない。誠心で浄く正しい平蔵の心に感銘し、その死後、報恩感謝供養の誠をつくした 若い侍の敬虔な態度にも教え導かれるものがある。物足りて心貧しい今日、得諄和尚の主旨に生き る法孫として、かねてより多くの人々が平蔵地蔵尊にあやかり、浄く正しい心で和平な日々を送っ て、明るい社会づくりに役立たんことを願っていた。
 たまたま篤信者あり。平蔵地蔵尊の信仰こそ荒れた人心を洗う甘露の法乳であると賛同と援助を得たので、海雲寺並に荒神王を参詣する總ての人にお参りいただくため、本尊前庭に移し奉安するこ ととなった。ここに平蔵地蔵の由来を略記し讃仰の資とす。
 南無地蔵願王尊伏して願わくは尊像を拝し奉るわれ等を憐愍せられ、誠實な心、健全な体もて世の ため人のためにつくせる力を与え給え 。


力石



 いつの頃からか、この力石は海雲寺の境内にあり、若者達の力競べに大正の中頃まで、使われていた。当時門前には多勢の漁師や親船から積荷を小舟に移し取る瀬取(せどり)(沖仲仕)がいて、この石を何回持ち上げられるか、門と本堂の間を何回持って歩けるかと競ったものである。力つきて放り出し大地に落ちるときのドスンという鈍い音は、騒音のなかった当時、静けさを破る心持よい響きであった。

昭和61年10月 福沢嘉吉 記す
 この石はその当時からこの場所にあり、元気な若者の汗が染み込んだものです。石にふれてお元気を出して下さい。文字は寄せ文字家元・橘右近師匠の奉納揮毫です。


筆塚


大日本帝国議会原始記念碑

建物と塀の間に建てられていて、しっかり探さないと見つけられない。
調べてみるとどこに建てるか揉めたようだね。
http://hino-museum.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/06/rekimin142.pdf


山門


しながわ百景


参道入口






品川寺(ほんせんじ)



品川寺六地蔵



銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)
 江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』により、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ一軀ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧請者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師大田駿河守正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五軀が残っています。
 六地蔵のうち、海照山品川寺の地蔵は一番古く、宝永五年(1708)に造立されたものです。像高は、現存するものの中では一番大きく275cmあり、かつては鍍金が施されていました。
 江戸時代中期の鋳造物として大作であり、かつ違例の少ないものであることから文化財に指定されました。


品川寺イチョウ



 本樹は幹周り5.35m、樹高25mが、推定樹齢約六百年という古木であるが、整然とした樹姿を見せ、その樹勢も極めて旺盛であり、幹や大枝
らは、多くの乳が垂れている。
 本区内の数あるイチョウ のなかでも、ひときわ目立つ存在であり、かなり離れた地点からも眺めることができ、壮観である。
 また約六百年という樹齢は、本寺が歴史の古い寺であることを実証するもののひとつである。


境内稲荷社


山門


参道






◆幕府御用宿「釜屋」跡



 南品川 には旅人 が休息をする「建場茶屋 」が、数多くありました。江戸に最も近い品川宿は、江戸を立つ旅人達を見送る為の宴会の場
であったり、また参勤 で江戸 に入る大名が、旅装束 から江戸屋敷に入る支度を整える場所でもあり、大変賑わいました。
 中でも品川寺門前の「釜屋」は、海をのぞむ風光明媚な茶屋 であり諸大名にも愛され、料理を供するようにもなりました。慶応三年(1867)には「幕府御用宿 」として、多くの幕臣達が東海道を上下する為に利用しております。
 同年十月二十一日、新選組副長・土方歳三 と副長助勤・井上源三郎 が、新入隊士や故郷の支援者達、計三十一名で休息した記録が残されております。
 また、慶応 四年正月十二日~二十三日、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った新選組 の「品川屯所 」となっておりました。
 この品川の地で、幕末 の風を感じて下されば幸いです。






保土ヶ谷宿の街道松



 この松は、東海道が取りもつ绿で四番目の宿場町、 保土ケ谷宿の「保土ヶ谷四00俱楽部」から寄贈されたものです。 この松は、両宿の友好のシンボルとして三十年、五十年と地域の方々と共に大切に育ててまいります。
 なお、この松の植樹にあたてては 「ガーデンホーム南品川管理組合」の皆様のご理解とご尽力をいただきました。
 品川宿にはこの他にも、東海道の宿場町から同様の趣旨で寄贈された街道松が植えられています。








◆関宿の街道松



 この松は東海道が取り持つ縁で四十七番目の宿場町、堰赤肇さんから寄贈されたもので増赤さんはじめ関宿の皆さんは、東海道の街道松を復活させる活動に、大変熱心に取り組んでいます。
 この松は、関宿の友好のシンボルとして三十年、五十年と地域の方々とともに大切に育てて参ります。
 なお、この松の植樹にあたっては、伊藤忠商事株式会社のご理解とご尽力をいただきました。
 品川宿にはこのほかにも、東海道の宿場町から同様の趣旨で寄贈された街道松が植えられています。                         






◆竹内医院

アド街に出ていた。
築なんと100年以上。
木造建築で関東大震災や空襲を免れたとのこと。






◆あおよこ

商店街。
通りの名前は青山横町の駅前から続いている「ジュネーブ通り」。








続く。