2020/07/11 北品川散歩 03 極楽寺/真了寺/茶南品川諏訪神社/天妙国寺/袋井宿の街道松/宮川家旧宅跡/長徳寺

ここでも旧東海道を北上。
少し歩いただけでなにかの説明板がある。
もしかしたら見逃してしまっている場所がものすごくあるかもしれない。






極楽寺

一軒家っぽいけれど、表札にも「極楽寺」とあった。






◆真了寺







◆南品川諏訪神社


茶ノ木稲荷社



鳥居


参道入口









◆天妙国寺



日什筆曼荼羅
縦38、横15.4cm、紙本墨書、軸仕立である。中央に南無妙法蓮華経の7字を大書し、その左右および下に、多宝・釈迦・四菩薩・日蓮など多数の諸尊名が梵字の種子で書かれている。中央下には日什(花押)の署名と年記及び受者名が記してある。
この曼荼羅は至徳2年(1384)顕本法華宗の開祖日什が玄恵坊に授けたもので、軸裏に慶長十四年(1609)日経が日什の真筆であると証明している。

日蓮消息文[上野女房御返事]
縦30.3、横39.2cm、紙本墨書、軸仕立てである。
この文書は、日蓮が上野(山梨県中巨麗郡櫛形町)に住んでいた南条時光の夫人が、署名花押は晩年の建治・弘安(1277~80)頃の他の真筆に類似している。墨色はかなり薄れているが、真筆を疑う余地はないようである。

日什諷誦文及び置文写
天地35.9、長さ260cm、紙本墨書、巻子仕立である。
諷誦文は死者追悼の法会に、その意趣を記して読み上げる文、置文は自己の意思を後の人に伝えるために書いた文である。
この諷誦文は、嘉慶二年(1388)八月、顕本法華宗の祖日什が弟子日妙の一周忌法要に読み上げたもので、著作の残っていない日什の教説を知り得る唯一の資料として貴重である。また置文は、日什が弟子たちに示した心得2ヶ条から成る。
奥書によれば、寛永十四年(1637)日葉が京都の寂光寺所蔵の日什の自筆本を写したものとなっている。
妙国寺顕本法華宗に属する大寺で、弘安八年(1285)日蓮の直弟子天目上人が開いた寺である。


遠州流 元祖 本松斎一得 師



読めない字が多かったので文字化を断念。

本松斎一得 で調べた。
本松斎一得(ほんしょうさいいっとく)
享保三年(1718)~文政3年(1820) 江戸中期~後期の華道家
江戸浅草常林寺の住職。
浅草遠州流をおこした。
103歳。
とあった。
参考
本松斎一得(初代)(ほんしょうさい いっとく)とは - コトバンク


妙国寺五重塔礎石



 天妙国寺五重塔は十五世紀中頃に建立されました。その後、慶長十九年(1614)秋に大風のために倒壊。寛永年間に修復されたのですが、元禄十五年(1702)の四谷塩町より出火した大火によって焼失したと伝えられています。五重塔は「妙国寺絵図」(左図)にも描かれています。
 五重塔 には、一本の心柱(塔の中心の柱)と十六本の柱があり、それぞれの柱には礎石と呼ばれる大きな石の上に建てられます。特に心柱を受ける礎石を心礎といいます。中央にくぼみのある石が当時の五重塔の柱の礎石です。三個のうち中央の花崗岩製の礎石が心礎と考えられます。
 なお、この礎石は後世に移されていて、五重塔のあった正確な場所は不明です。


鐘楼


しながわ百景


山門






◆袋井宿の街道松



 この松は、東海道が取りもつ绿で二十七番目の宿場町、 袋井宿村上利夫さんから寄贈されたものです。 この松は、両宿の友好のシンボルとして三十年、五十年と地域の方々と共に大切に育ててまいります。
 なお、この松の植樹にあたっては 「サンクタス品川管理組合」の皆様のご理解とご尽力をいただきました。
 品川宿にはこの他にも、東海道の宿場町から同様の趣旨で寄贈された街道松が植えられています。







◆宮川家旧宅跡



 南品川妙国寺門前のこの場所に居を構えた宮川家は、江戸時代中頃より玄米を精米して小売する「舂米(つきごめ)屋」 営み、江戸城内の米搗(こめつき)も輪番で務めていました。
 明治に入ってからは店を広げ、薪炭の小売業も始めま した。さらに会社経営や投資を通じて、地城資本家としても歩み始め、昭和末年まで精米業を続けていきました。
 これらの事柄を記録した「宮川家文書」は、火事で古文書がほとんど残っていない品川宿における貴重な史料として、昭和56年2月に品川区の有形文化財に指定され、 現在は品川歴史館に収蔵されています。
 宮川家は、城南小学校増築への寄付など社会貢献活動 にも力を入れ、幕末に設立した南品川の互助組織から発展し、品川図書館の母体を作り、現在も地域の教育活動を支援してきている一般財団法人六行会(りっこうかい)とも深く関わっています。






◆長徳寺


閻魔堂


境内稲荷社


山門






続く。