2020/07/11 北品川散歩 06 品川橋/鎮守橋/海徳寺/荏川(えがわ)橋/稼穡稲荷神社/熊野・稲荷・八幡/荏原神社

また旧東海道に戻る。
品川橋からはまた離れて目黒川沿いに東へ進む。



◆品川橋

下は目黒川。






品川宿河岸(俗に百足河岸)
江戸時代、品川領の村々では年貢米を目黒川や陸路をつかってこの河岸まで運び、幕府の浅草御殿に送っていました。この南品川宿河原のことを俗に百足河岸と呼んでいました。百足河岸と呼んだのは南品川宿河岸のそばに百足屋という大きな旅籠屋があったからだといいます。








◆鎮守橋





奥に見える神社がこの後出てくる「荏原神社








◆海徳寺


海徳寺板木 二十枚

 古来各寺院は、参詣者に各種神仏の御影や御札を配布することが多く、それらを摺(す)るための板木を所有していた。しかし板木は使用されているうちに摩耗し、使用できなくなると廃棄されたので、現存するものは少ない。
 本寺は江戸時代から旧品川宿に住む檀徒に各種の護符を配布しており、それに使用した板木が二十枚残されている。
 その種類は、大黒天・鬼子母神・淡島尊天(あわしまそんてん)・妙見菩薩(みょうけんぼさつ)・清正公・三宝荒神(さんぽうこうじん)など、江戸時代から大正頃までの民間信仰の御札の板木である。
 これらの板木は、かつての品川地域の民間信仰の様相を伝えるものとして貴重である。


地蔵尊


軍艦千歳殉難者之碑

明治39年12月9日、軍艦「千歳」(初代)への通船が突風のため転覆。
乗組員65名・見送人15名、計83名が亡くなるという事故だった。
海徳寺で大法会が催され、13回忌のときにこの碑が建立されたとのこと。
wikiと他を参考。
千歳 (防護巡洋艦) - Wikipedia
海徳寺


ホームラン地蔵

元巨人軍の王貞治がまだ新人の頃、ある心臓病の少年に「ホームラン王になる」と誓ったそうだ。
残念ながらその少年は14歳で亡くなってしまう。
この地蔵はその少年のお墓である。
王さんは記録達成ごとにお墓参りに来ていたとのこと。
右手に抱えているのはバット。
左手にある玉は野球のボールだそうだ。



山門













◆荏川(えがわ)橋











◆稼穡(かしょく)稲荷神社



 稼稲稲荷社は、別名荏川稲荷ともいい、祭神は宇迦能比売(うかのひめ)命である。この稲荷のはじまりについては、こんな話が伝わっている。
 薩摩屋敷から六行会がこの土地をゆずりうけたとき稲荷社は北東の旧目黒川の方にあった。
 そこでそんな隅にあったのをたいそう気にしていた六行会の生みの親ともいえる山本伴曹は、ある夜狐の嫁入りの夢をみた。山本伴曹は荏原神社の神主であった鈴木播磨に頼んで、伏見稲荷さんを分請したというのである。
 そしてそれは文久元年(1861年)という。
 稼は植える、櫓は収める、とりいれを意味し、農業の意味である。
 稼はカセギともよみ、かせぎためると読み替え商売繁盛の神として命名した。
 稲荷の祭りは、春に田の神を里に逆える二月の初午である。赤い藻や白い旗を立て、地口行灯を立て、世話人が赤飯を蒸して、町内の子供たちや参詣人に配った。
 子供たちは、太鼓をたたき町内を回り、各家から菓子などをもらって歩いた。
 そんなお稲荷さんの初午は、昭和初期まで残っていた。



稼穡(かしょく)稲荷のイチョウ



 イチョウイチョウ科に属する落葉の高木で、高さ30mにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄(めすとおす)それぞれ別の木となる。
 本樹は雄樹で、幹の囲りは4.1m、高さは23mあり、推定の樹齢は五百年から六百年である。木の勢いも盛んで、姿も整っており、本区内のイチョウの中でも屈指の巨木である。
 本樹は、長い間稼穡稲荷社の神木として保護されてきた古木で、遠くからの景観も大変美しい木である。








熊野神社・稲荷神社・八幡宮

隣の荏原神社境内社になるのかな?









荏原神社



荏原神社文書 八点  利田家文書 十八点
 将軍家朱印状写を合む本社に関する文書およバ延宝から明治まで旧日南品川宿名主の利田家より寄進された文書で、本社の沿華や南品川宿を知るための貴重な史料とされている。

荏原神社神輿海中渡御
 每年六月七日に行われる祭禮の「行事で、神輿を海中に入れもみあのうものである。江戸時代に海中から出現した神面を年一回神輿にって海中に入れ、ノリの豊作と魚貝類の豊漁を祈願したことに始まる。
 現在は、海岸が埋立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬の水のされいなところで、海中渡御を行っている。


明治天皇荏原神社 内侍所御奉安所史跡



明治元年7月27日明治天皇江戸を東京と改め帝都を東京に移すと詔す。この年9月29日天皇内侍所(今日の宮中賢所)を相具し奉りて京都御発輩諸宮3300人を従えて陸路東海道を東京へ向かわれた。下って10月12日朝神奈川駅御発輩川崎梅屋敷にて御小憩の後午後3時頃当荏原神社に御着輩本社弊殿に内侍所を拝殿に御羽車を御奉安遊ばされた。翌明治2年3月27日明治天皇後再興の節も内侍所を当社に御奉安せらる。この両度の内侍所御奉安に使用せられた建札はじめ菊花御紋章の高張提灯その他調度品を当者の御下賜せられ今日ここに至るまで用いられている次第である。明治5年京都に在せし英照皇太后東京へ行啓の際明治天皇は御出迎えのため御通輩の途次当社をもって御休憩に充てられし事は重なる光栄とするところである。


品川拍子

 品川拍子は祭札時に神輿が巡行する際の囃子(はやし)となる音楽で、大拍子(だいびょうし)と呼ばれる締め太鼓と、俗称トンビといわれる篠笛(しのぶえ)によって演奏される。その由来は定かではないが、荏原神社では昔から鳳葦(ほうれん)(現在は御羽車)に神面と大拍子を付け「天下泰平。五穀豊穣」と叩きながら氏子地域を回ったのが始まりといわれ、品川宿で成立し、当宿とその周辺地域にのみ伝承されている。現在伝えられている品川拍子は、明治初年に嶋田長太郎が集大成したものとされ、初代家元と考えられている。
 宝暦元年(1751)に始まる神典の海中渡御(とぎょ)で有名な「荏原神社天王祭」は、六月七日に近い日曜日を中心に行われるが、このとき神輿の上げ下ろしや、揉(も)んだり差したり納めたりの動作を品川拍子で指示するなど、他に類例を見ない特色をもっている。


楽殿


恵比寿様


鳥居





続く。