2020/07/11 北品川散歩 10 北品川公園/養願寺/正徳寺/竹屋横町/京浜急行新馬場駅の由来/一心寺

旧東海道まで出たら街道を北上。



◆北品川公園

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小泉長屋

 北品川本宿三町目の西側(現、北品川二丁目十二~十四番付近)の五反十八步(4.98㎡)の地域で、寛文四年(1664一六六四)には旗本,板倉主税
の抱地(武家地)てあった。その後、祐心という人物の所有となったが、寛延の頃(1748~51)に小泉屋全左衛門が譲り受けて貸長屋を建てたことから小泉長屋と呼ばれた。



井戸1

何故か公園のすぐ近く(敷地外)に井戸が二つもあった。


井戸2








養願寺



銅造阿弥陀如来立像
 この阿弥陀如来立像は、木造の観音・勢至(せいし)像を脇侍とし、本尊の脇に安置されている。 本像は衣を通肩(つうけん)にまとい、右手を屈して五指を伸ばし、掌(てのひら)を正面に向けている。
 左手は垂下(すいか)して第二指と第三指を伸ばし、他の指を屈した刀印(とういん)を結んでいる。善光寺(長野市)の本尊(秘仏)の模作のひとつであるが、鎌倉時代(1192~1332)の制作と推定され、大変貴重なものである。脇侍は江戸時代の作。

木造不動三尊像 三躯
 この三尊像は、中尊が不動明王立像、脇侍が制旺迦童子(せいたかどうじ)立像。矜羯羅童子(こんがらどうじ)立像の三躯である。像内の文書から甲州(山梨県)の出身で、武州豊島郡金杉村(台東区)世尊寺(せそんじ)に住む権大僧都玄雄(ごんのだいそうずげんゆう)が、万治元年(1658)に発願造立した像であることがわかる。 仏師は春達(しゅんたつ)であると推定される。
三尊とも彩色が施されているが、彩色は後世のものである。


しながわ百景









◆正徳寺









◆竹屋横町



竹屋横丁は東海道の北品川本宿二町目と三町目の境(現在の北品川二丁目六番と七番のあいだ)から東への横町で、浜通りに抜けて旧目黑川(現、なぎさ通りの西側)に至る。
支化三年(1806)に完成した「東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」には描かれており、弘化二年(1845)の「地誌御調書上(ちしおしらべかきあげ)」に名称の由来は不明とある。








京浜急行新馬場駅の由来



北番場町(きたばんばまち)
 品川の宿場には幕府公用の旅行者に対して一日あたり百匹の馬と百人の人足を提供するように割り当てられていた。
 この宿役に従事する馬を飼育する馬小屋かあったために付けられに地名であるという名称になったものと考えられる。
 北番場町は東海道に面する一丁目と二丁目の酒井から北品川宿の鎮守(現品川神社)へ向かう道を挟んだ一帯に付けられた地名である。
 京浜急行の北番場駅があった頃の北番場商店街通りの周辺がかつての北番場町と呼ばれたところである。

品川宿本陣跡(現在の聖蹟公園)
本陣  街道の宿場に置かれた参勤交代の大名・公家・幕府役人・高僧など主に貴人の宿泊施設である。
脇本陣 本陣の予備として建てられた宿泊施設で本陣が満室の場合に利用された。
文化元年(1804)の品川宿には本陣一ヵ所、脇本陣が二ヵ所おかれていた。








◆一心寺



安政二年(西暦1854年)日本開国之機運高まり国運の境目に接面し時、大老職にある井伊直弼公が縁起により江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄、安泰の願えとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に倣って建立されたと伝えられております。
当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺號を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし延命、商売の護りとして今日に続いております。
昭和六十一年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く また、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称されており、 内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光雲作観音像、寿老人等が祀られております。







続く。