2020/07/11 北品川散歩 11 溜屋横町/法禅寺/品海公園/台場歩道橋/朝日町/御殿山下台場砲台跡

旧東海道から東へ向かい、八ツ山通りへ。
通りを北上し史跡を巡る。



◆溜屋横町



江戸時代の北品川宿三丁目と歩行(かちしん)新宿一丁目の境の横町で、品川宿通りから目黑川に下り利田新地(かがたしんち)への鳥海橋が架けられていた。
支政期(1820年頃)に幕府编さんの地誌「新編武蔵国風土記稿」には横町名の記載はあるが、その由来についての記載はない。






◆法禅寺


法禅寺板木・銅版(七十一点)

 寺院などに残る板木は、近世から近代にかけて各種各様のものが作られ、参詣者に木版摺りの神仏の御影や御札を配布していた。板木は摩
耗してしまうと廃棄され、残ることはまれである。
 法禅寺板木は、正徳三年(1713) ~明治時代にかけて制作されたもので、六十九枚が残存している。板木の内容は、百万遍御札(ひゃくまんべんおふだ)板木、法然上人御遠忌仏(ほうねんしょうにんごおんきぶっしょう)板木、金光明最勝王経(きんこうみょうさいしょうおうきょう)の板木など多種類に及んでいる。
 銅版は、明治前期に制作されたもので、上部半面に細密な「阿弥陀浄土図」が描かれ、下部には「十万人日課講緒言(じゅうまんにんにっかこうちょげん)」が記されている。版も大きく、現在区内で確認されている唯一の銅版である。
 法禅寺のこれらの板木・銅版は、民間信仰の一形態を示す民俗資料として貴重である。



阿弥陀如来坐像
 当寺の本尊で、木造等身大の坐像である。右手を胸前に举げ、左手を膝の上において来迎の印を結ぶ。宝永二年(1705)安阿弥(あんなみ)末流の大仏師、大部の作になるもので、鎌倉時代の古様式をもつ江戶期造仏の代表作といえる。

法然(ほうねん)上人坐像
 木造で、像高二九センチメートルの小型の像である。右手を上にして胸前で数珠を持つ。作者は不明であるが、室町時代あるいは鎌倉時代にさかのぼる彫刻である。

紙本着色釈尊誕生变相図
 縦180、横157.5cmに及ぶ軸仕立の釈迦誕生の絵 で、作者は神田宗庭貞信(1765~1800)である。神田家は江户期を通じ、上野寛永寺の绘画役を務めた绘所で、貞信はその七世である。

紙本着色地獄变相図(しほんちゃくしょくじごくへんそうず)
 品川宿で旅籠屋を営んでいた田村屋清七 の筆になるもので、縦228.5、横127.5cmの軸仕立。地獄での亡者の樣相と阿弥陀如来の救済の情景を描いた絵である。 文政十一年(1828)、品川宿の商人と思われる人たちが寄進したものである。


境内稲荷社



稲荷社の門番猫w

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流民叢塚碑(るみんそうづかひ)



 この碑は、天保の大飢鐘でなくなった人たちを祀る供養塔である。
 天保四年(1833)に始まった天候不順は、その後数年におよび、多数の餓死者を出した。
 品川宿には、農村などから流浪してくる者が多く、この付近で病や飢餓でたおれる人が891人を数えるに至った。これらの死者は、法禅寺と海
蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。
 初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治四年(1871)に造立の流民叢塚碑が立てられていた。
 昭和九年(1934)に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。
 碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、天保の飢僅の悲惨さを伝えるとともに、名もない庶民の存在を伝えている。


法禅寺板碑・宝篋印塔・五輪塔  附 遺墳碑・萬霊塔・枯骨之墳




 板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて作られた石造の供養塔で、この板碑の石材は多くの関東の板碑同樣、秩父産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)が使われています。宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔とも、中世を代表する供養塔・墓塔です。
 板碑は総数116点で、最古の銘は徳治(とくじ)三年(1308) です。宝篋印塔は52点、五輪塔は104点の部材を数え、最古の銘は、宝篋印塔が応永十六年(1409)、五輪塔が応永十三年(1406)となっています。 これほど大量の板碑などが一力所から出土し保管されている例は珍しく、 大変責重なものです。
 萬霊(ばんれい)塔と枯骨之墳(ここつのふん)は同時に出土した人骨を弔うために建立されたもので、 遺墳碑(いふんひ)はその経緯を記し明治二年(1869) に建てられました。
 板碑のうち、宝德(ほうとく)四年(1452) 銘の阿弥陀三尊種子(あみださんぞんしゅし)を刻んだものは、品川区立品川歷史館に常設展示されています。



この左脇に建っていたこちらもその一部かな?
確認が取れませんでした。


法禅寺のイチョウ



 イチョウイチョウ科に属する落葉の高木で、高さ30mにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄(めすとおす)それぞれ別の木となる。
 本樹は雌樹で、幹の囲りは3.4m、高さは25mで、推定の樹齢は約400年である。木の勢いも盛んで、姿も整い、周囲にひときわ目立つ大
木である。
 本樹は古くから知られ、昭和十年(1935)の「東京市史蹟名勝天然紀念物概要」にも紹介されている名木である。


布袋尊


品川小学校発祥之地


山門






◆品海公園



ここも碑がいっぱい立っている。
品川宿の松」「しながわ百景」「品川宿の街道松」「東海道品川宿の石垣石」「階段石垣の名残り」
が、ここにある。
「階段石垣の名残」は園内の少し離れたところにある。


品川宿の松

この松は、品海公園の改修工事竣工を記念し品川宿で五本目の「街道松」として品川宿の方々から寄付していただいたものです。


しながわ百景


品川宿の街道松

 この松は、品海公園の改修工事竣工を記念人品川宿で五本目の「街道松」として品川宿の方々から寄付していただいたものです。


東海道品川宿の石垣石

この花壇に使用されている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていたものです。
かつて東海道品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれていました。
石材は千葉鋸山産の凝灰岩(房州石)であり、幕末から明治時代の加工と考えられます。
品川宿の護岸は、もともと伊豆半島産の安山岩(伊豆石)で構築されていましたが、江戸時代後期に房州石が加わるようになります。
房州石は産地も近く、柔らかく切り出しやすい石質のため、次第に伊豆石に取って代わっていきました。
海に接していた品川宿の歴史を伝える貴重な文化財です。


階段石垣の名残り



階段石垣の名残

 江戸時代の東海道は、品川宿に入ると海にちかくなり、宿場通りから海岸通りの方へ行く横丁は、全て坂になっていました。
 昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていました。
 江戸時代には、ときどき波浪によってこの石垣が壊され、宿場にとって修復は大変負担となりました。


公園反対側の入り口






◆台場歩道橋








◆朝日町



安永三年(1774)から埋立てが始まった南品川漁師町の地先の土地で、天保五年(1834)の検地で利田新地(かがたしんち)(南品川新開場)と名づけられた。
朝日町は利田新地の字(あざな)で、目黒川に架かる鳥海橋(明治十一年品海橋と改称)までのあいだの地、(現、東品川一丁目八番と二九番一部付近)である。
品川で一番早く朝日を拝めることから「朝日町」となったという。






◆御殿山下台場砲台跡



 嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のベリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀(神奈川県)に来航しました。鎮国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。
 伊豆韮山(静岡県)の代官。江太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台づくりの指導にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第入以下は着工にも至らなかったのです。その代わりとして、陸続きで五角形の
砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋め立てられ姿を消しましたが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることができます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。
 台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3年(1870)、日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。
 品川灯台は、現在は国の重要文化財として愛知県犬山市博物館明治村に移設されています。


韮山」は以前行ったことがある。
世界遺産の一部「韮山反射炉
2015/09/19 ぽかける倶楽部 part3 韮山反射炉 - ovanの社会科見学

wiki調べ
品川台場(品川砲台)(東京都港区) - 国の史跡。江戸幕府がペリー来航に備えて築いた砲台。通称「お台場」。第一台場から第七台場までの建設が進められたが、第七台場は未完成のままとなった。』
台場 - Wikipedia

第一~第七までの台場がどこにどのようにあったのかは宿題。
"φ(゜□゜*(゜□゜*)φ" メモメモ







続く。