2020/07/13 東五反田散歩 04 相生坂/了真寺/袖ヶ埼神社/雉子神社/袖ヶ埼橋/寳塔寺/電波新聞社

桜田通りを南西に進んで五反田駅まで進む。



◆相生坂

坂上方向。



坂下方向。



相生坂の名称は、古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田一丁目)前を通る道と、この坂のある中原街道が、堆子神社(東五反田一丁目)の手前で合流していたことにもとづくとされる。昔は急坂で険しいものであったが、だんだんと道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。






◆了真寺







◆袖ヶ埼神社



 当神社は東五反田三丁目、四丁目の一部の鎮守社で元忍田稲荷大明神(しのだいなり)と称し保延元年(1137)京都稲荷山より奉斎されました。其後康永三年(1344)越前国丹生郡小川村の鎮守八幡宮の神主山口直可の次男直正が東国へ下向し、当社の神主となり爾来現在まで22台累代宮司として奉仕して居ります。真正が神主となった時、神明宮を社の南の方へお祀りして当所の地名を以って袖ヶ崎神明宮と奉称、又八幡宮を祀り其後元禄年中に天満宮を正徳年中に塩竃大神をお祀りしました。又厳島大神(弁天様)は東都歳時記に云う御府内弁財天百社番外の4番でありました。明治維新の際、袖ヶ崎神社と改称されました。
 当社は徳川三代将軍家光を始め伊達家細川豊前守等多数諸侯の崇敬あり、古蹟社と称されて寺社奉行直支配でありました。御社殿は江戸時代以来大東亜戦争罹災まで4度類焼、昭和三十二年氏子諸氏の奉賛により仮社伝が竣工、昭和四十二年六月社前の中原街道の拡幅に伴い境内整備と共に社伝其他を新築しました。
 末社祖霊社、真正神社、神社祭祀に功のあった山口直正命が祀られております。


境内社


楽殿







◆雉子(きじ)神社



当社鎮座の起源は古く、御社号は元荏原宮、文明年中には大鳥明神社とも称して居りましたが、慶長年間に徳川三代将軍家光公が鷹狩りの折に、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀な目出度いしるしであるとして雉子宮と名付けられて、江戸の社寺名所にその名を連ね、明治維新に雉子神社と改められて現在に及んでいます。 当社は武蔵国荏原郡上大崎村、下大崎村、谷山村、永峰町、六軒茶屋町、現在の品川区上大崎・東五反田の全域と、両五反田1・2・3丁目一円の氏神鎮守であります。 神域は昔から現在の処で、社前の中原街道(国道一号線)が明治38年から3度横幅改修されて、次第に狭隘となりました。明治以前は白雉山宝塔寺別当職でありました。明治5年村社と定められ、明治43年上大崎村に鎮座の三島神社を合祀して現在に及んでいます。


三柱神社



海老澤啓三郎君(胸像)



文字化を断念・・・・。
判読できない字が多すぎる・・・・。
WEBで調べてもこのかたの詳細がわからなかった。


雉子神社のイチョウ



 イチョウイチョウ科に属する落葉の高木で、高さは30mにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄(めすとおす)それぞれ別の木となる。
 本樹は雌樹で、幹の囲りは約4m高さは18mあり、推定の樹齢は150年から200年である。木の勢いも盛んで、樹姿も整っており、本区内のイチョウの中でも代表的な巨木である。
 本樹は、本社境内の樹木景観の中で中心的な存在となっており、美しい姿を見せている。


石塔

どういう人なんだろう?
字は読めるけど、意味が分からない・・・・・。








◆袖ヶ埼橋

上は桜田通り。
上記で訪れた場所は全て桜田通り沿い。
階段でこの場所に降りられるようになっていた。






◆寳塔寺


地蔵堂







電波新聞社

以前直接ではないがお世話になったことがある。







続く。