2020/07/19 高輪散歩 08 泉岳寺

泉岳寺は情報量が多いので1ページにした。



泉岳寺 本堂



 当萬松山泉岳寺は、慶長十七年(1612)、徳川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546~1621)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺道元禅師によって開かれた曹洞宗の第四代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、「松萬代に栄ゆる」の意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。
 将軍によって建立された当時も、寛永十八年(1641)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光(1604~1651)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間〈1644~1648〉とも)。この移転に際しては、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力して完成し、その因縁により以後この五大名が共に檀越となり外護の任に当った。
 江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三刹(埼玉県龍穏寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下で触頭として曹洞宗の行政面の一翼を担った。
 また、吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・祖録・漢籍等が講じられ、曹洞宗僧侶の養成に大いに寄与した。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時二百名程の学僧が修学していたという。
また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄十五年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約五十年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参詣者が訪れるようになった。 
 現存する山門は天保年間に当寺三十四世大道貞均和尚によって建立され、二階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、一階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠が嵌め込まれている。
 明治初期には廃仏毀釈の余波を受けて、やや荒廃を余儀なくさたが、当寺四〇世圓頓霊巌和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂・庫院を恢興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、既存の石巒師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて寺運の再興を果し、次代の四十一世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建し、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれた。
 然るに先の第二次世界大戦の戦渦に遭遇し、山門・義士館(旧義士館=現講堂)以外の諸堂が焼失し、歴代の功業は大いに削がれてしまった。しかし次の四十二世祖天凖爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、遂に昭和二十八年(1953)に本堂の再建を果し、以後これが継承されて現在に至る伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられている。先年義士討入り三百年を記念し、浄財を募って浅野家の塋域(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館(平成13年開館)を建設して、寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示して、赤穂義士の已むに已まれぬ心情を伝承することに資している。
 平成十六年、江戸期の学寮の伝統と戦前に宗門の宗義自覚の発露であった道元禅師鑚仰会の活動等を再興すべく、泉岳寺学寮講座を開設し、漢学・仏教学・宗学の各講座を毎週開講し、また参禅会を公開して道俗の好学の士の渇望に応えている。


本堂

 旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築です。
 ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。
 本堂では坐禅・読経などの修行が住職をはじめとした修行僧により厳粛に勤められています。
 正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指します。



境内案内図






大石内蔵助良雄銅像



 この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。
 内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。






澤木興道老師像



仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人です。






◆主税梅



大石主税切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。






◆水琴窟



日本庭園で手水鉢や蹲踞(つくばい)の流水を利用して、地中に伏瓶(ふせがめ)をした空間に、したたり落ちる水が反響して、琴の音色に聞こえるようにした装置で、江戸時代の庭師が考案したものといわれている。


義士への鎮魂

 大石内蔵助による元標十四年(1701)の赤穂城明渡しは実に手際よく、見事なものであったと言う。
 歴史によればその六年前に傳中高梁の松山城がお世継ぎ不在のために改易となり、明渡しの労をとったのが大石であった。
 備中高梁には水琴窟を考案した小掘違州が国奉行と して慶長九年(1604)から滞在し、違州の手になる 頼久寺庭園が今も残されている。内蔵助も執務のかたわ ら水琴窟の妙なる音色に耳を傾け、疲れた心を癒してい たのではないだろうか。
 主君に忠誠を尽くして散った四十七士の崇高な精种に 心から敬慕の念をこめて、水琴の音を捧げたい。

備中高梁(びっちゅうたかはし)





◆首洗い井戸



 義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。






赤穂義士墓所

工事中の所があった。



義士墓解說

 赤穗城主浅野內匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。 家臣はこの処断に承服せず、 筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄十五年(1702年)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。
義士一同は、十二月十五日夕刻細川家(十七名)、松平室家(十名)、毛利家(十名)、水野家(九名) の四家に預けられた。 翌元禄十六年二月四日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。 直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。
 附 記 遂道退身信士(寺坂吉右衛門)、刃道喜劔信士(萱野三平)の墓は供養墓で在る。






◆義士墓入口の門



この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。






赤穂浪士記念館

今回は中に入りませんでした。
今度時間がある時に!






◆山門




 この門は天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。
 二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。
 「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書です。






中門



 元来、泉岳寺には三門と言って三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。
 現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されています。
 「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうはい)による書です。






続く。





ーメモー
宿題

瑤池梅
血染めの梅、血染めの石
赤穂浪士記念館
講堂・義士木像館
梵鐘・鐘楼堂






続く。