2020/07/30 三田散歩 03 長松寺/常林寺/豊川稲荷神社/明王院/明福寺/願海寺/慈眼禅寺

桜田通りへ出たところ周辺を散策した後、幽霊坂を少し戻って北に向かう路地に入る。
やはりお寺がいっぱいだった。



◆長松寺


山門


参道入口と荻生徂徠(おぎゅうそらい)墓



 江戸時代中期の儒学者。字は茂卿(しげのり)、通称惣右衛門、徂徠は号である。寛文六年(1666)館林藩瀋郎に生まれた。十四歳から十三年間、父方庵(ほうあん)に従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄三年(1690)江戸に戻り、柳沢吉保(よしやす)に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「薩園(けんえん)」を開いた。宋学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。「論語微」「明律国字解(みんりつこくじかい)」「訓訳示蒙(くんやくじもう)」「蘐園随筆」等多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保七年(1722)「政談」を幕府に献上した。享保十三年(1728)一月十九日六十三歲で死去した。






◆常林寺


安島直円(なおのぶ)墓

 安島直円は江户中期の出羽国新庄藩士で数学者です。享保一七年(1732)江戸新庄藩邸で生まれました。通称を万蔵と称し、南山と号しました。和算の入江塾に学び、その後関孝和の流儀を継ぐ山路主住に暦術や和算を学びました。
 安島の研究は独創的なものが多く、「円理」 の研究や幾何学の「三斜三円術」など、直線と円の接触関係図形の研究を著しました。また 山路家が天文方だった影響で、暦に関する著作もあります。寛政一〇年(1798)、六七歳で江戸藩邸で没しました。安島の和算に対する功績は高ㄑ、関流中興の祖と言われています。


境内社



山門






豊川稲荷神社

中に入れなかったので外からお参り。







明王院







◆明福寺







◆願海寺







慈眼禅寺







続く。