2020/07/30 三田散歩 05 大増寺/済海寺/亀塚公園/御田八幡神社/笹川記念会館/ミネベアミツミ東京本部/元和キリシタン遺跡

クウェート大使館の後は第一京浜へ出で北上。


◆大増寺




門前にあった小さな祠。







済海寺


観音堂


山門


最初のフランス公使宿館跡

 済海寺には、安政五年(1858)に締結された日仏修好通商条約により、翌六年八月十二日にフランス公使館が設置されました。初代駐日公使ド.ベルクール (着任時は総領事)がここに駐在しました。公使館としては書院、庫裏の全部、慶応二年(1866)十二月に玄関、門、門番所などが増增設され、明治三年(1870)四月十日に公使館が引き払われるまで使用されました。
 済海寺は明治年間に敷地が分割され、かってのフランス公使館の数地は、現在の済海寺本堂敷地とその西隣の地域となります。







亀塚公園




公園附近沿革案内

 この公園付近は、江戸時代、上野(こうづけ)沼田藩土歧(とき)家の下屋敷で、明治維新後は皇族華項宮(かちょうのみや)邸となった。
 ここは三田台から高輪、ハッ山に及ぶ一連の丘陵地の東端で、庭肉には老本、大樹が茂り、遥かに房総の山々を一望のもとに見晴らす勝地であった。西側の道路は古奥州街道にあたり、江戸開府前の主要道路であっ た。この地は、平安時代菅原孝標(たかすえ)の女(むすめ)が著した「更級日記」に绍介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されている。塚は古墳とみられるが、人工の築山であることのほか、その話拠はえられてない。挙項宮が廃家となり、一時内大臣官郎となったが、昭和8年建物はこわされ、さらに昭和20年戦災をうけ、昔の趣きを失った。昭和27年11月3日港区立公園と して開園した。



亀塚



 古くから坪井正五郎博士等によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調查が行なわれず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和四十五・四十六年、港区教育委員会が主体となり、慶応義塾大学が測量調查および発掘調查を実施Lた結果、この塚が古墳
時代以後に築造されたことが明らかとなりました。 さらに平成十四・十七・十八年に、港区教育委員会が亀塚と周辺の 調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかに しました。しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定する ことはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。
 また、平安時代に書かれた『更級日記』に見える竹芝寺の伝說地とも伝元られ、文明年間(1469~87)には、太田道灌が斥候(せっこう)(ものみ)を置いたと伝えられて います。江戸時代には、この地を屋敷地とLていた沼田城主土岐頼熈(よりおき)が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。


亀山碑



 亀山碑は、ここ亀塚の頂部にある幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国(こうづけのくに)沼田城主土岐頼熈((ときよりおき)によって寛延三年(1750)に建てられたものです。土岐家は、明暦三年(1657)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文に秀でた大名といわれた頼熈は、この
地が『更級日記』の竹芝寺伝説の故地であることや、塚の頂部に酒壷があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるためにこの碑を建立したと考えられています。大名が邸内に建立した石碑として貴重なものです。


亀塚霊神祠跡

亀山碑 のすぐ近くにあった。


階段

ものすごい高低差のある公園で、この階段を下りていくと二股に分かれていて第一京浜と次の御田八幡神社に出る。


近くにあった地図







御田八幡神社


五光稲荷神社/御嶽神社



伏見稲荷神社


楽殿


鳥居







◆笹川記念会館

昔CMでよく見た「と~じま~りよ~じん♪ひ~のよ~じん♪」のおじさんということは判るが、どんなことをした人なのかいまいちよくわからない。


wikiで調べてみた。
『笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年〈明治32年〉5月4日 - 1995年〈平成7年〉7月18日)は、大正・昭和時代の日本の政治家、社会奉仕活動家。大阪府三島郡豊川村小野原(のちの箕面市小野原)出身。 』
とあった。
細かく読んでみると、かなり多岐にわたって活躍された方なんだね。

CMを探したらあった。
https://www.youtube.com/watch?v=zUjKPCtUpL4


こちらの会館、設計は三橋建築設計事務所で1975年(昭和50年)竣工とのこと。
The SASAKAWA HALL|笹川記念会館


笹川良一と母の像(作品名は不明)


像正面下

わが母への讃歌
笹川良一
母背おい宮のきざはし
かぞえても かぞえつくせぬ
母の恩愛

笹川会長五十九歳の時 八十 歳の母を背おい七百八十五段の石段を登ってお宮参り



水六訓

一、あらゆる生物に生命力を与えるは水なり。
二、常に自己の進路を求めてやまざるは水なり。
三、如何なる障害をも克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性とを兼ね備えるは水なり。
四、自から清く他の汚を洗い清濁併せ容るの量あるは水なり。
五、動力となり光となり、生産と生活に無限の奉仕を行い、何等報いを求めざるは水なり。
六、大洋を充し、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪と変じ、露と化してもその性を失わざるは水なり。

水を心とすることが平和と健康と長寿の妙薬であります。
笹川良一










ミネベアミツミ東京本部

東証一部上場企業だね。
本社は長野県になっていたので、こちらは東京における拠点の一つなのだろう。







◆元和キリシタン遺跡



 徳川三代将軍家光が元和九年(1623)十月十三日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実紀によって知られている。処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウエス神父、原主水ら五十人で、京都に通ずる東海道の入口にある丘が選ばれたと、パジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その他は恐らくもとの智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空地となっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどが あげられる。
 なお、寛永十五年(1638) 十二月三日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。





公開空地なんだね。




続く。