2020/08/03 港区芝散歩 05 芝浦妙法稲荷神社/旧ジュリアナ東京/ヤナセ/南浜町児童遊園/港区立伝統文化交流館/徳純院/東海道線ガード

JRの線路まで戻る。
名前のないガードをくぐって線路の反対側(西側)へ出る。


◆芝浦妙法稲荷神社



 昭和7年(1932)、東京倉庫運輸株式会社がこの地に進出の時、既にこの敷地の道幅に一本に太い柘榴の木と共にささやかに祀られた祠があった。
 その建設者も名称も縁起も不明のまま、管理者も不在であったので改築荘厳してお供物、お賽銭は絶えなかった。昭和46年(1971)、竹芝端の拡張に伴い倉庫の改装を余儀なくされ、この稲荷の祠も改築遷座されることとなった。この機会にそれまでの因縁を考え「芝浦妙法稲荷」と名付け、広く地元の皆さんに開放、地域の仕合わせと発展をご守護願うことになる。たまたま芝浦3丁目にあった芝浦稲荷が廃社になっており、「石造りのお社とお狐2体、灯篭2基、手洗い1基、敷石等一式を差し上げます。」との話を伝え聞き、地元住民の因縁を生かし社屋を竹芝橋稲荷に移築合祀することとし、芝浦全地域の氏神として復活した。
 竹芝橋稲荷は法華経有縁の稲荷であり、姫稲荷である。昔からの御神木は柘榴の木である。仏の金言に曰く「神は正直を以て頭となし、法華経を以って食となす」と。柘榴の木は鬼子母神のご神木として知られ、鬼子母神十羅刹女と共に法華経有縁の神々の内の女神の代表である。故にこの稲荷のご本体は正に女神であり、法華経守護請願の鬼子母神かその一類であり、「妙法稲荷」の名称を冠す神意と感得する。かつて繁栄を誇った木挽町妙法稲荷は既になく、そのご本体は鉄砲州稲荷に移管又芝浦妙法稲荷も戦後一信者の家庭稲荷と化し、妙法稲荷の命脈正に絶えなんとする時、偶然にもこの地芝浦にその継承と復興が実現、妙法稲荷の本山となる。
 昭和57年(1982)8月、ブロンズ製金色の釈尊座像を祀り、神仏混交を具体的に表現。これ法華経見宝塔視なの宝塔湧現であり、日蓮御聖人のお曼陀羅本尊の実現である。
 次いで昭和62年(1987)5月、ネパール国スアワンプ・ヤート寺(通称目玉寺)のギャン・カジ・シャモヤ上人より東京倉庫運輸株式会社社長池田新一に対し御仏舎利守護のご加命あり、奉戴を機会に御仏舎利を奉安する。







◆旧ジュリアナ東京



Google マップ
google map のマークの位置はこのあたり。
WEB住所などを調べるとここで間違いないようだ。
あの頃、僕はまだ学生で山形に住んでいたので縁が遠いところだった。
田町駅から結構歩くと思うけど・・・・
と思ったけど、タクシーで行っちゃうよね。あの時代なら(w






ヤナセ



 三井物産の機械部にいた梁瀬長太郎が大正4年に独立して梁瀬商会を創立したのが始まり。三井物産から輸入自動車と鉱油類の一手販売権を譲り受け、日比谷公園前に270坪を借り受けて店舗と工場設備を持ち営業を開始した。
 しだいに事業は伸長して趣町区銭瓶町を手始めに、全国に事業所を拡大、大正8年3月には芝浦へ進出した。当時の芝浦は、東京市港湾部 の事業として埋め立てられた12万平の広大な空地にあり、土地利用計画もまだ立っていなかった。この地の賃借権を得た同社では、期限の切れた昭和34年に同地を取得した。
 そのころの芝浦の情景について、2代目社長の梁瀬次郎は、「見渡す限りの丈なす草原で、埋め立て後十数年も放置されていて、見る影もなかった。埋立地の間の掘割には橋もなければ道路もなく、掘立小屋がところどころに散らばり、岸壁に釣り人が見受けられる程度で、電気水道はもちろんガス等の設備も何もない、荒野であった」という。
 大正年間は、東京市は財政難の時期で、この広大な土地の売却を計画し、払い下げ入札をした。応札は梁瀬と中野貫一氏であった。入札の結果、土地は当時の石油王と称せられていた中野氏が入手した。しかし中野氏にさしあたっての利用計画がなかったため、梁瀬は同氏と交渉し、その一部15,000坪を40年間という期限で賃貸契約し、昭和34年から同地を取得したもの。以来ここはヤナセの主要工場として重要な働きをし、終戦後一時米軍に接収されたが、解除後は本社となり現在に至っている。






◆南浜町児童遊園






◆港区立伝統文化交流館




 港区立伝統文化交流館は、港区指定有形文化財である旧協働会館(旧芝浦見番)を活用し、令和2年4月に開館しました。東京都内で唯一現存する木造見番建築を公開するとともに、伝統や文化を次世代へとつなぐ場となって、区民の相互交流を促進し、地域の活性化を目指す施設です。
昭和11年 芝浦見番として建設
昭和19年 芝浦花柳界疎開により、東京都の所有となる
昭和20年 以降 港湾労働者の宿泊所となる(「協働会館」と呼ばれる)
平成12年 老朽化のため施設閉鎖
平成18年 「協働会館(旧芝浦見番)の現地保存と利活用に関する請願」採択
平成21年 東京都から港区へ建物移譲、区指定有形文化財に指定
平成29年~令和元年 建物保存整備工事
令和2年  港区陸伝統文化交流館として会館

港区指定有形文化財 建造物 旧協働会館
 旧協働会館は、昭和11年に芝浦花柳界の見番として建設されました。 見番とは、三業組合事務所のことで、「置屋」 「料亭」「待合」 からなる 「三業」を取りまとめ、芸者の取次ぎや遊興費の清算をする施設です。 間口10尺、奥行60尺ほどの棟の後方にL字型に30尺弱張り出した平面構成です。 正面玄関には銅板葺の唐破風を付け、1階に事務所、2階に桧板敷舞台のある 「百畳敷」と呼ぶ大広間を設けました。 棟梁は、目黒雅叙園も手がけた酒井久五郎であり、良材をふんだんに使っており、扉の己崩しや、「階段の手すりなどに、その技巧を見ることができます。
 第二次世界大戦中に花柳界疎開し、戦後は港湾労働者の宿泊所「協働会館」として使用され、 2階だけは日本舞踊の稽古場、集会のために貸し出していましたが、平成12年に閉鎖されました。
 閉鎖後、しばらく放置されたため傷んでいた箇所もありましたが、令和元年に修理工事を終えて、往年の姿を取り戻しました。 華やかな花柳界の面影を今に伝える建築として貴重です。






◆徳純院






東海道線ガード



名前がありそうだが、見当たらなかった。






◆御穂鹿嶋神社


芝濱囃子の碑


「?」

碑文は大半が剥がれていて判読が不可能。


狛犬

神社裏にあった像






続く。