2020/08/05 麻布散歩 07 善福寺/光善寺/善光寺/真福寺/善通寺/善正寺

一気に北上。
こちらは全て善福寺の境内になるのかな?
ほぼ1か所に固まっている。



◆善福寺



 善福寺本堂は、当初東本願寺八尾別院大信寺の本堂として建設された建物を移築して、昭和36年に現在地で組上げたものです。大信寺は慶長年間の創建で、移築された本堂は明和四年(1767)に再建されたものです。再建の際に創建当初の柱など建築部材を一部利用したと思われます。
 正面幅約28m、奥行約34m、入母屋屋根、桟瓦葺。広い外陣と装飾性豊かな内陣、内陣の正面を華やかな欄間彫刻で飾り、金、極彩色で仕上げ、浄土真宗特有の形式をとります。組物は尾垂木付の二手先です。
 天明の大火[天明八年(1788)]で京都の東本願寺が焼失したので、同年から寛政十年(1798)まで東本願寺へ移築されて御影堂として使用されましたが、翌年八尾別院に再建されました。
 本建築は江戸時代の大規模な浄土真宗の本堂の構成を良く示す都内有数のものであり、また三度の移築を経るなど特殊な履歴も含めて、大変に貴重な建築です。


案内図


最初のアメリカ公使宿館跡

説明板隣の碑は「ハリス記念碑」



 安政五年(1858)六月に締結された日米修好通南条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、安政六年(1859)善福寺をアメリカ公使館として八月に赴任します。当時の宿館としては、奧書院や客殿の一部を使用していましたが、文久三年(1863) の水户浪士の焼き討ち
で書院などを消失したため、本堂、開山堂なども使用しました。 明治八年(1875)に築地の外国人居留地へ移転します。当時の建物は戦災で焼失しています。
 寺には「亜墨利加ミニストル旅宿記」 (港区指定文化財)が残されており、外国公使館に使用された寺の実態がよく伝えられています。



鐘楼


開山堂



 開山堂ははじめ真言宗蔵王権現どして開かれたもので、古く麻布郷の鎮守であったと伝える。
 親鸞聖人のお立寄りによって浄土真宗に改宗した中興開山了海上人は、蔵王権現の申し子として大井(現、品川区)に生まれ、この像が堂内に安
置されることになった。かつては堂前でさまざまな行事も行なわれていたが、戦災焼失後再建されて、今は東京都の有形文化財となった。
 像とともに港区の有形文化財である、秀吉朱印状他の貴重な寺歴を物語る古文書等が収蔵されている。



親鸞


善福寺のイチョウ



 イチョウ(銀杏。公孫樹)は、中国原産のイチョウ科の落葉高木である。雌雄異株で神社や寺院の境内樹・公園樹・庭園樹・街路樹として広く植栽されている。四月に開花し、雌株は十月に種子(イチョウの実)が成熱して独特の臭気を放ち、黄葉する。
 この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは10.4mあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹令は750年以上と推定される。
 善福寺は、昭和二十年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったがいまなお往時の偉観をうかがうことができる。
 根がせり上がって、枝先が下にのびているところから『逆さイチョウ』ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した技から成長したとの伝説から『杖イチョウ』の別名もある。


福沢諭吉夫妻墓

元は常光寺にお墓があったがこちらに移された。
2020/07/29 白金台散歩 05 白金台三丁目遊び場/最上寺/本願寺/常光寺/戒法寺/宝蔵寺/タジキスタン大使館 - ovanの社会科見学



越路吹雪の碑



愛の讃歌」の歌碑が刻まれている。


wikiで調べた。
『越路 吹雪(こしじ ふぶき、本名:内藤 美保子(ないとう みほこ)、旧姓:河野(こうの)、1924年大正13年)2月18日 - 1980年(昭和55年)11月7日)は、日本のシャンソン歌手、舞台女優。元宝塚歌劇団男役トップスター。 愛称は「コーちゃん」「コッシー」(旧姓から)。』
墓所川崎市宮前区初山の日蓮宗初香山本遠寺で内藤の墓に隣接する形で越路の墓が建てられている』
とあったので、こちらはお墓ではない。
越路吹雪 - Wikipedia


越路吹雪 - Wikipedia


柳の井戸




 自然に地下から湧き出る清水である。
 東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に析願をこめ、手に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて掘ったものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
 とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われる。


勅使門



 当山の中門は古くから勅使門と呼ばれ、伝承によれば、文永の役(1274年)で亀山天皇の勅使寺となったとき以来の命名とされている。
 寺院の門として最も重要な位置にあり、幕末のアンベール著の絵入り日本誌等に、その形が描写されていた。
 当時の火災は免れたものの、昭和廿年五月廿五日戦災を受けて焼失し、昭和五十五年十一月五日の再建によって、現在の形を再び現わした。


最初のアメリカ公使宿館跡の碑

入口入ってすぐの所に碑が建っていた。


山門







光善寺







善光寺







真福寺







善通寺







◆善正寺







続く。