2020/09/09 広尾散歩 03 有栖川宮記念公園

◆公園入口(広尾口)






◆公園案内図

有栖川宮記念公園の由来と特色
この地は江戸時代、旧盛岡藩主南部美濃守の下屋敷でしたが、明治29年(1896)に有栖川宮御用地となり、更に大正2年(1913)には高松宮御用地となりました。その後、児童の自然教育および健康に格別の関心をもたれた高松宮殿下が、昭和9年(1934)1月5日、故有栖川威仁親王の御命日にちなんで御用地約11,000坪(36,325m)を公園地として賜与され、当時の東京市は直ちに工事を進め、同年11月17日有栖川宮記念公園命名し開園したものです。
本園は都心にはまれな閑雅な地であり、丘陵から渓谷を下り池畔に至る地形の変化と、うっそうとした樹木など日本古来の林泉式の修景により、高雅な自然趣味の庭園となっております。
またウメやサクラ、ハナミズキなどをはじめとして四季折々の花も多く、秋にはカエデやモミジの紅葉も楽しむことができます。
また、園内の広場には本園にゆかりの深い故有栖川宮熾仁親王銅像があります。
なお、現在は麻布野球場と庭球場編入し、本園の総面積は67.131㎡です。






◆麻布地区旧町名由来板

麻布広尾町(あざぷひろおちょう)
 地名の起源には種々の説があります。もとは広岡とか、平尾とか、広野とかいろいいわれていますが定かではありません。現在の渋谷区へまたがる低地一帯は広尾原と呼ばれ、江戸時代の初期の頃は荒野であったと想像されます。しかし延宝年間(1673〜1681)頃までに、今の有栖川宮記念公園の入口付近に百姓町屋ができあがっており、それ以外のところは武家地と畑地が半々くらいになっていました。正徳3年に町奉行の支配となり麻布広尾町となりました。

麻布新堀町(あざぶしんぼりちょう)
 町は東流してきた古川が北へ屈曲する部分の左岸にあります。「御府内沿革図書(ごふないえんがくずしょ)」によると、江戸時代初期から町域のほとんどが武家屋敷でした。
 明治5年(1872)、武家地を合併して麻布新堀町となりました。町名は、町の東と南の二方が新堀川(古川)に沿うことに由来します。

麻布田島町(あざぶたじまちょう)
 元禄(1688〜1704)から享保(1716〜1736)にかけて新堀向と俗称したようですが、近傍に三田亀塚の代地二ヶ所、西久保关徳寺領屋敷があるのを併せて田島町を名乗ったといいます。その頃周囲はなお田であったので「田の中の島のような町」との意味だという説もありますが、本当のところははっきりしていません。

麻布本村町(あざぶほんむらちょう)
 古川の谷へ南面する台地から傾斜地にかかっており、古くから住居好適地に選ばれたことは貝塚の存在することでもわかります。阿佐布という地名は当初このあたりを指したものと推定され、本村とは元村すなわち麻布の中心の意味といわれています。

麻布新広尾町(あざぶしんひろおまち)一丁目 三丁目
 古川沿いの土地で、天現寺橋から一の橋に至る長い町域をもっています。町としたのは麻布広尾町の人が移転しはじめたのによるものらしく、番地も広尾町が79番地で終わるのに対し、新広尾町は80番地より始まっています。

麻布竹谷町(あざぶたけやちょう)
 町名は、古来、里俗に竹ヶ谷(たけがや)と呼んだことに由来します。別に、「ねくるみ村」とも呼ばれ、うぐいすの名所として巣立野とも呼ばれました。「うぐいすをたづねたづねて阿左布まで」という芭蕉の句は巣立野と呼ばれたことと関係があるのかもしれません。明治5年(1872)、武家地を合併して麻布竹谷町となりました。

麻布富士見町(あざぶふじみちょう)
 盛岡町の台地が古川へ望む傾斜地で富士山がよく望見できたといいます。元禄11年(1698)、将軍家の別荘である白銀(しろがね)御殿(麻布御殿、富士見御殿などともいう)ができました。富士見町の名は明治5年(1872)につけられましたが、白銀御殿の別名富士見御殿にちなんだものだといいます。

麻布盛岡町(あざぶもりおかちょう)
 延宝年間(1673〜1681)、すでに奥州南部藩南部氏の邸地となっており、そのまま明治維新まで続きました。明治5年(1872)、盛岡町と命名したのは、南部氏が盛岡城主であったためです。






◆池

池に名前は無いようだ。









◆滝






◆梅林広場

春に来てみないとだね。






都立中央図書館

公園内にある図書館。
2度来たことがある。
2014/01/11 part2 東京都立中央図書館 - ovanの社会科見学

2018/10/15 part1 東京都立中央図書館 「江戸城大奥の世界」 - ovanの社会科見学






◆記念碑

この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の不屋敷であったが明治二十九年有栖川宮家の御用地と なり大正二年高松宮殿下がこれを受けつがれた
股下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の 入団も許しておられたが昭和九年一月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付させたのがこの公関である 本都はその本主旨にそい直ちに造園工事に着手同年十一月これを完工し広く都民に 開液したものである







有栖川宮熾仁親王銅像







◆笛吹少年

舟越保武 と彫られていたので作者であろう。

『舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身で画家の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。娘の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は絵本編集者で「すえもりブックス」経営者』
舟越保武 - Wikipedia






◆新聞少年の像




僕は少年新聞や
軽くしごけば新聞のインキがプンと匂います
大事にかかえて走るとき
ラソン選手のようでしょう
ぼくは元気な新聞や



この像を建てたわけ
毎朝毎晩、私たちの待っている新聞を届けてくれるのは、多くの配達少年です。
雨にも 風にも。負けないで元気に働く少年たちです。
その清純な姿が朝倉響子氏の手によって表現されました。
この像は、少年たちには、仕事への誇りと責住を、大人には、働く少年たらへもっと愛の想いをと呼びかけているのです。






◆噴水






続く。