2020/09/09 広尾散歩 06 祥雲寺/東江寺/霊泉院/香林寺/上宮寺/恵比寿駅

広尾駅西側を散策。
その後は明治通りに出て恵比寿駅まで歩き、ゴール。


◆祥雲寺


鐘楼


鼠塚

墓地入口の右手に見える大きな石碑は、明治三十二年(1899)から数年間ペストが流行したとき、予防のために殺された鼠の霊を供養して明治三十五年に建てられた珍しい動物慰霊碑です。



山門







◆東江寺

ほぼ両脇いっぱいまでの柵が・・・・。
入っていいものかどうかわからなかったので外からお参り。







◆霊泉院


歴代頂相(ちんそう)画 附 子順(しじゅん)和尚像

 「頂相」は高僧の頂 (頭部)の相貌という意味で、一般には、禅宗の肖像を指して用いられます。中国僧の頂相が伝来した日本では、鎌倉時代末期から室町時代にかけて臨済宗系の寺院で作成され盛行しました。
 臨済宗大徳寺派に属する当院の頂相画は、近世の作例で、開祖の徳峯宗古から十四世の廉州宗貞までのすべての像が揃っています。開基の頂相は二幅あり、貞享三年(1686)作成の像が壮年の姿を描き、宝永二年(1705)作成の像が晩年の姿を表しているのは興味深いものです。
 霊泉院の頂相は寿像(生前の像) の多いことが特筆され、像主の容貌を忠実に伝えている可能性が高いものです。
 また、多くの画像の制作年代が、画賛の年紀などから判明し、絵師名が知られるものもあり、江戸時代における頂相制作の一端を知ることができます。


木造十一面観音立像

 本像の形は、左手をおなかの前で曲げ蓮華茎をどり、右手を連華に添える聖観音の姿であり、本尊聖観音像として伝来しています。しかし、頭上部にのこる数か所の埋木が頭上面を挿し込んでいた痕跡であることが確かめられ、当初は十一面観音像であったことがわかります。
 像は頭から両腕を含め両足先までを一本の木材から彫り出した、一木造といわれるものです。右脚の膝をゆるめ、わずかに左に腰を振って立つ姿は、やや細身の優美なさまで、体にまとう裾の衣丈が幾重にもたたんで彫り出され、簡素ながら鎌倉時代の作風がみられます。わずかに、高く結上げる皆や切れ長の眼にも鎌倉時代の特色がのぞいています。本像は保守的な平安期の作風を踏襲する嫌倉末期の作例と考えられます。
お顔には後世の彫り直しが認められるほか、両手の肘から先や足先など部分的に補修されていますが、根幹部は当初のままを伝えています。


板碑



 板碑は鎌倉時代から江戸時代のはじめごろの間に盛んに造られた卒塔婆の一種です。関東では主に、秩父地方原産の緑泥片岩を材料として、それを板状に加工して銘文などを刻みこんで造られました。この板碑の形態は、関東のみならず区内で最も多く目にする典型的な板状塔婆です。
 板碑の一般的な特徴は、頭部を山形にし、ニ段の切りこみ(二条線)を入れ、その下に本尊としての仏像、または楚字の種子が彫られ、造立年代・願文(がんもん)・偈文(げぶん)などが刻まれている点にあります。
 この板碑は、二条線の下に天蓋と阿弥陀の種子、その下に蓮台を刻み、明徳五年(1394)五月廿九という造立年月日と、以下の供養の文字が彫りこまれています。
明遍
十法世界
  善法
念仏衆生
摂取不捨
 古文書の少ない渋谷区の中世史研究にとって、この板碑は欠くことの できない大切な歴史資料です。


鐘楼


庚申塔







◆香林寺


香林院茶室

 香林院茶室は、仰木魯堂(おおぎろどう)が大正八年(1919)に自らの茶室として設計施工したものです。
魯堂は近代の茶室建築に深く関わった人物で、大正四年(1915)には、三井財閥益田鈍翁(どんのう)(孝)の茶室で御殿山にあった為楽庵(いらくあん)の工事の一部を担当しました。
 近代の財界人による茶の盛行を主導したのは、鈍翁、団琢磨、高橋箒庵(そうあん)、原三渓らですが、魯堂はこの動きに深く関わり、茶人として高い評価を受けていました。
 かつて都心にあった財界人の邸宅には、このような茶室が数多くありましたが、戦災でその大半が焼失し、また戦後の再開発によっても多くが取り壊されました。魯堂の茶室もほとんどが失われ、数棟が現存するのみです。香林院茶室は、元の所在地に残されたものとしては唯一のものです。


三渓は「三渓園」の人だね!
2015/03/26 三渓園 - ovanの社会科見学


香林院と大給恒の墓

 香林院は、大給松平氏菩提寺として、寛文五年(1665)に建立されました。開基は大給恒の先祖真次で、法名から寺号を香林院としました。
 大給松平氏は、松平一門として徳川幕府に仕えました。その本拠は三河ですが、竜岡城(現長野県佐久郡臼田町。国指定史跡)は、恒が造った江戸時代の最後の城郭建築で、函館の五稜郭とともに我が国には珍しい洋式の城です。
 恒は明治維新後に姓を大給と改め、新政府の要職に就きました。明治十一年(1878)には、賞勲局副総裁となり、同二十八年には、総裁となりました。日本の勲章制度の礎を築くとともに、彼が考案した日本古来の伝統に基づく勲章のデザインは現在も使われています。
 また、明治十年(1877)五月に、佐野常民らと日本赤十字社の前身である博愛社を創設し、常民とともに初代副総長となり、日本の医療・福祉制度の整備に努めました。
 墓は、この説明版の左手奥、祥雲寺山内の墓地にあり、大きな墓碑には「枢密院顧問官正二位勲一等伯爵大給恒墓明治四十三年一月六日甍」と刻まれています。


歴代頂相(ちんそう)画附絶山宗信(ぜつざんそうしん)像

 「頂相」は高僧の頂(頭部)の相貌という意味で、一般には、禅宗の肖像を指して用いられます。中国僧の頂相が伝来した日本では、鎌倉時代末期から室町時代にかけて臨済宗系の寺院で作成され盛行しました。
臨済宗大徳寺派に属する当院の頂相画は、近世の作例で、開祖の絶山宗信から十二世の洞明宗仙まで、十八世初頭から二十世紀半ばまでの像が揃っています。
 香林院の頂相は、寿像(生前の像)の多いことが特筆され、像主の容貌を忠実に伝えている可能性が高いものです。
また、ほぼ全ての作例が、画賛の年紀などからその制作年代が判明し。多くの作例で絵師名が知られることから、頂相画の研究資料としても貴重なものです。


山門







◆上宮寺


鐘楼


山門

左上に写っている建物は「聖心女子大学
一度中を見学させていただいたことがある。
2019/03/22 01 聖心女子大学 旧久邇宮邸(パレス)一般公開 - ovanの社会科見学







◆恵比寿駅

ゴールのJR恵比寿駅。



9月も中旬に差し掛かろうというのにまだまだ暑いねー。
そしてやっぱり坂が多かった。
道が狭いうえに車がたくさん走っているから邪魔にならないよう撮影した。
かなり神経を使うね・・・・。
有栖川宮記念公園、コロナ前は外国人の親子連れがたくさん居たのに今はほとんど日本人。
すっかり変わってしまった印象となった。