2020/09/11 芝公園散歩 05 東麻布商店街/パナマ大使館/パラオ共和国大使館/延命子育災除け地蔵尊/妙定院

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◆東麻布商店街

商店街♪



しっかり東京タワーを宣伝してるね(w






パナマ大使館

パナマ共和国パナマきょうわこく、スペイン語: República de Panamá)、通称パナマは、北アメリカ大陸南アメリカ大陸の境に位置する共和制国家である。北西にコスタリカ、南東にコロンビアに接し、北はカリブ海、南は太平洋に面する。首都はパナマ市。 』
パナマ - Wikipedia






パラオ共和国大使館



パラオ共和国パラオきょうわこく、パラオ語: Beluu ęr a Belau、英: Republic of Palau)、通称パラオは、太平洋に位置し、ミクロネシア地域の島々からなる共和制国家。首都はマルキョク。2006年10月7日に旧首都コロールから遷都した。パラオ南西部に位置するアンガウル州では日本語を公用語として採用していることでも知られる。 』
パラオ - Wikipedia






◆延命子育災除け地蔵尊



災除(さいじょ)地蔵尊縁起
 延命子育災除地蔵尊は、古くより『江戸南方四十八所地蔵尊参』の第二十七番として列せられ、戦災に遭うまで、木造丈六の大像で本院境内の地蔵堂に把られ、霊験あらたかで、災除・安全・延命・子育を祈る善男善女の参拝が絶えなかった。
 大戦後、その焼失を惜しむ声多く、唯一焼け残った同地蔵尊の守護札版木をもとに石像として再建立され、境内別所にあったものを、台座の改築を経て、より多くの方々にそのご加護あらんと、此地に移遷座されたものである。
 往来の道すがら、合掌され、地蔵尊のお慈悲に触れられんこと参願うものである。






◆妙定院



 妙定院は、徳川九代将軍家重公の大導師を勤めた、増上寺四十六世妙誉定月大僧正によって、家重公菩提のため「御中陰の尊碑」を安置して、宝暦十三年(1763)、幽水閑雅だったこの地に開創された。増上寺の別院として位置づけられ、明蔵(一切経)を有し仏典研究の中心的存在でもあり、のち浄土宗の准檀林の寺格を持つ、念仏道場・学問研究の名刹として知られてきた。
 法然上人御直作で熊谷直実の念持仏と伝える法然上人像をまつり、「円光大師(法然上人)東都二十五霊場」の第一番とされた。
 また十代将軍家治公の尊碑も納められるなどその後の幕府の帰依も厚く、多くの什宝物が寄進された。「法然上人伝絵詞」など現在文化財に指定されているものも多く、「熊野堂」「上土蔵」の二建造物は、国の登録有形文化財となっている。
元伯爵・萬里小路家、明治の殖産興業の先覚者・前田正名翁などの墓所がある。


熊野堂


上土蔵


銅造阿弥陀如来及両脇侍立像/琴棋書画図屏風 狩野探雪筆

銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
中尊は細面の長身に作られ、著しい伏目の面相は親しみやすく、江戸時代江戸時代前期の作風を表しているのに比べ、両脇侍は肩を張った体躯と丸みのある頭部が形姿を整えており、制作年代は両脇侍がやや先行するものと思われます。このように本三尊像は一具同作とは認めがたいものですが善光寺式三尊像の遺制をよく伝えた作例として、また三尊が均衡を得た構成を示している作例としても貴重です。
本像はいわゆる善光寺式三尊にあたる三尊一具像の遺例です。その相形は信濃善光寺の根本仏として伝えられる像にあるとされ、欽明天皇十三年(551)に百済からもたらされた長さ一尺五寸の阿弥陀如来と同一尺の観音・勢至菩薩で、金で鋳造きれた霊験像であるといいます。
今日、善光寺本尊は秘仏ですが、これを模刻して崇める記録は平安時代後期からみられ、鎌倉時代からのち模像の遺例はにわかに増えて各地に及び、その間細部の形状に異同も生じています。
本像の像高は中尊が41.4cm、左脇侍30.7cm、右脇侍30.3cmで通例の法量を示しています。三尊とも銅鋳し納全を施しています。

琴棋書画図屏風 狩野探雪筆
 古来、中国では、琴、棋、書、画の四芸を士大夫・教養人の嗜みとして尊重しました。わが国でも、ことに漢詩文学に傾倒し、隠逸を愛した五山僧の間にこれを習おうとするところが多く、絵画に表されたのは少なくとも室町時代初期にまで遡ることができます。以後、公武の愛好も得て、琴棋書画図は唐人物を描く際の画題として、江戸時代に至るまで長く制作され続けました。
 筆者の狩野探雪(1655~1714)は、幕府御用絵師として活躍した狩野探幽(1602~1674)のニ男です。父探幽は、探信、探雪の二子を深く愛したため、兄探信が鍛冶橋狩野家の家督を継ぐにあたっては、その所領を両分し、別に一家を立てたと言います。探雪も幕府の絵師として多くの仕事を行い、天和2年(1682)及び宝永6年(1709)の2度にわたって来日中の李氏朝鮮使節に贈る屏風を制作しています。本図は、父探幽の画風を忠実の祖述したもので、いかにも御用絵師らしい筆による謹厳な画面が作り上げられています。江戸初期における武家好みのアカデミックな狩野派様式を知るための貴重な作品です。


山門









続く。