どんどん西へ歩き、ゴールの渋谷駅に到着。
2016/04/22 part2 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 - ovanの社会科見学
前に一度お邪魔しているので今回はパス。
外の展示物詳細を書いてなかったので書いとく。
白松(はくしょう)
松の仲間として分類された中国原産の植物て「しろまつ」とも呼ばれています。日本の松とは幹の皮の感じが違いますが、葉は似ています。しかし、個々の葉をよくみると、赤松や黒松が二本なのに対して、これは三本に分かれていることが特徴です。また、樹形も上に向かって合掌するような形になっています。全国的にみても非常に救の少ない稀種です。この松は、大正の末ごろ、中国北京から持ち帰ったもので、内田治氏のご好意により昭和五十三年一月、区に寄贈されました。
末崎慊堂(まつざきこうどう)宅地跡
松崎慊堂は江戸後期の儒者で、熊本に生まれ16歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学びました。32歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画しました。45歳のとき藩を辞し江戸に出て、このあたり羽沢に山荘を営み研究と門弟の教育に尽力しました。弘化元年(1844)74歳で没するまでここに住み、石経山房(せっけいさんぼう)と名付けました。
慊堂の学問は朱子学が中心でしたが、経書一般にわたり国典にも詳しく、考証の面や詩文にも長じ、学識はひろく、識見も卓越していました。
『慊堂日歴(こうどうにちれき)』はこの山房の日記ですが、この時代の天候の模様や、村人の生活などを知るのに貴重な史料です。
庚申塔
江戸時代の民間信仰のひとつに、庚申講がありました。初期には、講中(グループ)が六十日ごとに集まって念仏を唱え、長寿を析る行事でした
が、のちにはレクリエーションに変わっていったようです。
右側の二基は、桜丘町二九番にあり、斎大治氏が大切に保管されていたものを、区に寄贈されました。
阿弥陀一尊図像板碑
この図像板碑の材質は、秩父産の緑泥片岩です。板碑の形状は、山形の頂部、二段の切込み(二条線)、やや突出気味の額部、それ以下の身部、地下に差し込む基部からなります。その下方部(身部の一部と基部)を欠損しておりますが、中心をなす身部には、来迎印を結び蓮台上に立つ阿弥
陀如来像が光条を放つ姿で線刻されています。その上方には日月や天蓋が彫りこまれ、蓮台下には、机の上におかれるという図像で、蓮台の左右に「月待供養」の文字が刻まれています。前机下には、紀年銘と思われる「丈」という丈字を中心にして、その左右に偽もしくは供養者名と考えられる文字が彫-られていたことが痕跡から窺えます。
板碑の形態や現存する図像板碑の類例から判斬すると、十五世紀後半頃にあたると考えられることから、「文」は文正か文明、あるいは文亀という年号が想定され、本図像板碑が室町時代中頃に制作されたものと推定できます。
伝来については、不明な点が多いのですが、当区内に存在する板碑のなかで、図像を表すのはこの板碑だけであり阿弥陀如来一尊と月待供養が刻まれた図像板碑は、現在のところ関東地方に十教点しか確認されていません。
五輪塔 傘屋の碑 聖観音
五輪塔は、中世以降につくられた墓で、これはもと神宮前一丁目(旧竹下町)にありました。
銘文から正徳三年(173)に建てられたことが判明し、蔵治義盛氏から区に寄贈されました。
傘屋の碑は、もと千駄ヶ谷にあったといわれ、江戸時代に土地の傘問屋の仲間がつくったものと思われます。金王八幡宮から寄贈されました。
聖観音二基は、もと恵比寿橋から明治通りにでる左角にありました。言い伝えによるとある大名の奥方がこのあたりで急死し、その供養の
ために建てられたものといわれています。
戦後、しばらく、ごみの中に埋まっていたのを奮茂一氏が保管され、膏巌氏から区に寄贈されました。
板碑
この板碑は、博物館に保管してある三基の板碑で、建武元年(1334)七月、延文六年(1361)十一月、康正二年(1456)七月十九日の年紀があります。このうち、建武元年の一基を区登録文化財、延文六年及び康正二年の二基を区指定文化財としました。
板碑は本来、碑ではなく卒塔婆の一種であり、関東では主に秩父産の縁泥片岩(青石)を使用しています。その特徴としては、頭部を山型の二等辺三角形に造り、その下に二本の切り込み線(二条線)を刻み、蓮台の上に本尊となる種子または図像を表し、年紀銘を入れます。この三基の板碑も、同様の形式を踏襲しています。
延文六年と康正二年の板碑は、昭和四十年代に区内の同一地から出土し、渋谷区に寄贈されました。延文は北朝年号であることから南北朝時代の当該地が北朝勢力に荷担していた可能性を示唆し、康正は室町時代ではありますが、同一地から出土していることが重視され、区の歴史にとって重要であるとの認識から区指定文化財となりました。建武元年の板碑は、区内で最も古い板碑です。しかしながら、区外から持ち込まれた可能性があることから、登録文化財となりました。
建武と延文の板碑は、比較的保存状態も良く、完品に近い状態を保っています。康正の板碑は、下部を欠損し摩滅しているものの中世の資料が少ない当区にとって欠くことの出来ない貴重な文化財です。
◆常陸宮邸
wikiで調べた。
『常盤松御用邸(ときわまつごようてい)は、東京都渋谷区東に所在する皇室財産。
現在は常陸宮家が邸宅として使用している。名称は旧常磐松町による。 』
常盤松御用邸 - Wikipedia
『常陸宮(ひたちのみや)は、日本の正仁親王の宮号。
ここでは正仁親王の宮家である常陸宮家についても解説する。なお、常陸宮家は直宮家である。 』
常陸宮 - Wikipedia
◆日本コカ・コーラ㈱
◆実践女子大学渋谷キャンパス
こちらも以前お邪魔したことがあるので今回はパス。
2016/04/22 part1 実践女子大学「香雪記念資料館」 - ovanの社会科見学
涼しくなったとはいえまだまだ暑い。
坂ばっかりだったのでさらに不快指数倍増(w
大使館の数がものすごく多い。
港区にはどのくらいの大使館があるんだろう?