2020/09/15 六本木散歩 04 六本木ヒルズ/出雲大社東京分詞/環状三号線高架下/ガーナ大使館/青山霊園/青山橋

路地を西へ進み、青山霊園南側へ到着する。
青山霊園北側は散策しないで西へ進む。



六本木ヒルズ







出雲大社東京分詞








◆環状三号線高架下









◆ガーナ大使館



ガーナ共和国(ガーナきょうわこく)、通称ガーナは、西アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にトーゴ、北にブルキナファソ、西にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はアクラ。』
ガーナ - Wikipedia







青山霊園

今回は南側の一部だけ散策。



みっけ♪




常陸丸 殉難 近衛後備隊将士之墓



 明治三十七年(1904) 日露戦争 が勃発し、同年六月十四日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸 に乗船して 宇品 を出港し、勇躍征途に就いた。翌十五日午前十時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益荒男も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遙拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで 玄海灘 の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人ロに膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
 明治三十七年十月三十日、殉難者墓碑を建設し、近衛隊の英霊六百三十五柱の遺骨、遺髪、遺品、写真などを納め、神式および佛式て盛大な慰霊祭が執り行われた。
昭和六十一年六月十五日
殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す


国木田独歩墓所


北里柴三郎墓所


青山緑陰散歩

 青山緑陰散歩は、表参道駅から乃木坂までの約2.6Kmのみちのりです。青山、六本木という現代を代表する繁華街にはさまれた静かな青山霊園の緑の下をめぐります。霊園には近代史に名を連ねる政治家、学者、文人などが多く眠っています。

青山の歴史と自然
 都立青山霊園は、明治5年(1872年)郡上(ぐじょう)藩青山家の下屋敷跡を墓地としたもので、ここには明治以降の著名な政治家、思想家、実業家、軍人、学者、文人、芸能人芸能人などの墓が多数ある。
 この霊園をはじめとして、青山のほとんどは台地の上にあり、かつては草や畑などの緑におおわれ、眺望がきいていた。斎藤茂吉は明治時代の青山を次のように描写している。
 「青山脳病院(註:南青山五丁目)も創立当時はあのあたり一面は原であった。それから直ぐ隣は基地でそれも墓石は極めて稀であった。また続いて畑があった。(中略)病院と相対する向うの丘は一部は森林でー部は墓地であった。そこで歩兵が小さい演習をしたり喇叭(ラッパ)の譜の稽古をしたりするのが手にとるように見えたものである。」
(斎藤茂吉「癡人(ちじん)の癡語(ちご)」より)







◆青山橋










続く。