2020/09/17 南青山散歩 04 青山霊園 01

青山霊園を散策。
多いので分ける。
お墓は巡った順。



今回はこの地図から北側を散策。







加藤高明墓所

『加藤 高明(かとう たかあき、1860年1月25日〈安政7年1月3日〉- 大正15年〈1926年〉1月28日)は、日本の外交官、政治家。位階勲等爵位は正二位大勲位伯爵。学位は法学士(東京大学1881年)。幼名は総吉(そうきち)。
外務大臣(第15・18・25・27代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。 』
加藤高明 - Wikipedia






浜口雄幸墓所

『濱口 雄幸[注釈 1](はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4月1日〉- 1931年〈昭和6年〉8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。
大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁などを歴任した。 』
濱口雄幸 - Wikipedia






井上準之助墓所

『井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 1932年(昭和7年)2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。 』
井上準之助 - Wikipedia






◆上野英三郎墓所忠犬ハチ公の碑

『上野 英三郎(うえの えいざぶろう、うえの ひでさぶろう、1872年1月19日(明治4年12月10日) - 1925年(大正14年)5月21日)は、日本の農学者。農学博士。東京帝国大学教授。日本の農業土木、農業工学の創始者である[3]。また東京都渋谷駅前に銅像が建つ忠犬ハチ公の飼い主としても知られる。』
上野英三郎 - Wikipedia






◆堀基墓所

『堀 基(ほり もとい、1844年7月29日(天保15年6月15日) - 1912年(明治45年)4月8日)は、江戸時代末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。北海道炭礦鉄道初代社長。貴族院議員。位階勲等は正四位勲三等。』
堀基 - Wikipedia






◆藤波言忠墓所

『藤波 言忠(ふじなみ ことただ、嘉永6年9月12日(1853年10月14日) - 大正15年(1926年)5月24日)は、日本の華族、宮中顧問官、政治家。正二位[要出典]勲一等子爵。 』
藤波言忠 - Wikipedia






海江田信義墓所

『海江田 信義(かいえだ のぶよし、天保3年2月11日(1832年3月13日) - 明治39年1906年)10月27日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の政治家・華族。通称は武次(たけじ)。幕末期は有村俊斎の名で活動した。雅号は黙声、静山、孤松。 』
海江田信義 - Wikipedia






加藤友三郎墓所

『加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日〈文久元年2月22日〉- 1923年〈大正12年〉8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。階級は海軍大将、没後 元帥海軍大将。
日露戦争連合艦隊参謀長(日本海海戦時、第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議で日本首席全権委員を務める。海軍大臣(第8代)、内閣総理大臣(第21代)を歴任し、山梨軍縮やシベリア出兵撤兵を成し遂げた。 』
加藤友三郎 - Wikipedia



加藤友三郎(1861-1923)
第21代内閣総理大臣、元帥・海軍大将・正二位・大勲位・功二級、子爵。
1861年文久元年)、広島藩士の子として生まれる。海軍兵学校7期。
日露戦争日本海海戦では連合艦隊参謀長、その後、呉鎮守府司令長官などを経て、1915年(大正4年)第二次大隈内閣で広島県初の海軍大臣。以後、寺内・原・高橋内閣にて海相を歴任。1921年、第43回帝国会議にて米海軍拡張に対抗して八八艦隊予算獲得。1921年、ワシントン海軍軍縮会議首席全権。財政再建と対米不戦の観点から対英米主力艦比率5:5:3を受諾、八八艦隊計画を放棄。翌年、広島県初の首相。ワシントン条約履行、シベリア撤兵山梨軍縮などを実行。1923年(大正12年)、首相在任中に病死。






小村寿太郎墓所

『小村 寿太郎(こむら じゅたろう、正体字:壽太郞、1855年10月26日(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年)11月26日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣貴族院議員(侯爵終身)などを務めた。イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮(韓国)の公使・大使を務め、特に2度の外相時代には日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成(関税自主権の完全回復)などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる[1]。爵位は侯爵。』
小村壽太郎 - Wikipedia



小村寿太郎(1855〜1911)の略歴
 宮城県日南市飫肥出身。「藩校振徳堂に学び、大学南校(東京大学の前身)に入学。さらに初の文部省留学生として米国ハーバード大学に留学。帰国後、司法省を経て外務省に入り、翻訳局長、清国代理公使、外務次官を歴任し、さらに米、露、清の公使となる。1901年(45歳)、桂内閣の外務大臣に就任。1902年、日英同盟締結に成功し、1905年、 首席全権大使として米国ポーツマス市で日露講和条約を結び日本に平和をもたらす。1908年(52歳)外務大臣に再任。1911年、米英独仏と、幕末以来の不平等条約
を改正し関税自主権を回復する。以後、わが国は諸外国と対等な国際関係になる。勲功により侯爵位を授けられる。同年、神奈川県葉山町にて永眠(56歳)。






犬養毅墓所

『犬養 毅(いぬかい つよし、1855年6月4日〈安政2年4月20日〉- 1932年〈昭和7年〉5月15日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。
中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。 』
犬養毅 - Wikipedia






◆旧飯野藩主保科子爵家墓所
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『飯野藩(いいのはん)は、上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)の飯野陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた。
飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。 』
飯野藩 - Wikipedia








続く。