2020/09/17 南青山散歩 04 青山霊園 02

田中久重墓所

『田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。』
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元田肇墓所

『元田 肇(もとだ はじめ、1858年2月28日(安政5年1月15日) - 1938年(昭和13年)10月1日)は、明治、大正、昭和期の日本の政治家。政友会の長老。号は国東。第25代衆議院議長逓信大臣、鉄道大臣(初代)を歴任した。中央大学創立者18人の内の一人。杵築藩(大分県)の儒学者の養子。 』
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◆曾禰荒助墓所

『曾禰 荒助(そね あらすけ、新字体:曽祢、嘉永2年1月28日(1849年2月20日) - 明治43年(1910年)9月13日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、外交官。号は西湖[1]。明治時代の歴代内閣で閣僚職を歴任した。伊藤博文が暗殺された後に第2代韓国統監に就任し、韓国併合を進めた。 』
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◆旧日出藩主 木下(豊臣)子爵家墓所

『藩祖は豊臣秀吉正室高台院(於禰)の兄・木下家定の三男である木下延俊である。延俊は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、東軍で終始活躍した功績により戦後、徳川家康から5千石加増の豊後国速見郡日出3万石に封じられた。なお、父の家定も延俊とは別に所領を与えられ、備中国賀陽郡足守(賀陽郡上房郡2万5千石)に足守藩を立てている。
延俊の子で、第2代藩主となった木下俊治の時代、弟の木下延由に5000石(速見郡立石)の所領を分与したため、日出藩の所領は2万5000石となる。江戸時代を通じて移封も減封もされることなく、16代にわたって木下家は日出を支配し、明治時代を迎えた。
明治4年1871年)、廃藩置県により日出県となり、のち、大分県編入された。 』
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『木下 俊哲(きのした としあき明治6年1873年)2月23日 - 昭和11年(1936年)4月22日)は、明治から昭和期の華族(子爵)。環山と号した。位階は正三位。旧日出藩主木下家17代。豊臣秀吉正室高台院の兄の三男・木下延俊を家祖とすることから、豊臣子爵とも称した。 』
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◆福羽美静墓所

『福羽 美静(ふくば びせい(「よししず」とも)、天保2年7月17日(1831年8月24日) - 明治40年(1907年)8月14日)は、江戸時代後期の津和野藩士国学者歌人、また明治時代の子爵、貴族院議員、錦鶏間祗候。通称は文三郎、号は木園、硯堂。』
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川路利良墓所

『川路 利良(かわじ としよし、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治12年(1879年)10月13日)は、日本の警察官。幕末から明治初期の薩摩藩士、内務官僚。階級は大警視、陸軍少将(臨時)。位階は正五位。勲等は勲二等。
初代大警視(現・警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて詳細に構築した事実上日本の警察の創設者にして、「日本警察の父」とも言われている。西南戦争では大警視と臨時に陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を率いて抜刀隊を指揮して西郷軍に大きな打撃を与えた[1]。
名は当初「としなが」と名乗っていたが、後に「としよし」と改名した。通称は正之進。号は竜泉。家紋は六つ丁子車。遠祖は藤原氏といわれる。 』
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吉原重俊墓所

『吉原 重俊(よしはら しげとし、弘化2年4月10日(1845年5月15日) - 明治20年(1887年)12月19日)は、江戸時代末期(幕末期)の薩摩藩士、明治の官僚、日本銀行初代総裁。薩摩藩藩校造士館に学んだ攘夷派の志士であったが、薩摩藩第二次米国留学生としてアメリカ合衆国イエール大学初の日本人留学生として政治・法律学を学ぶ。岩倉使節団にワシントンで現地参加し、帰朝後は外務省書記官となり、大蔵省に転じて大蔵卿松方正義の下で活躍した。横浜税関長、租税局長を務め初代の日銀総裁となった。 』
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大久保利通墓所

『大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。
明治維新の元勲であり、西郷隆盛木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。
初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。



 大久保利通(1830-1878)は鹿児島藩大久保利世の長男として鍛冶屋町に生まれました。西郷隆盛とともに公武合体運動から倒幕運動に進み、岩倉具視らとは、王政復古を成功させます。明治政府が成立すると参与・参議として中核を担いました。明治四
年に岩倉欧米使節団の副使として諸外国をめぐり、帰国後は内政の充実を唱え征韓論の西郷らと対立します。内務卿として権限を振るい、佐賀の乱西南戦争などの反政府騒動を鎮圧する一方、地租改正反対一揆に対して地租を引き下げて農民を擁護し、板垣退助らと国会開設などの協議(大坂会議)を行います。
大久保は、官僚政治家として日本の資本主義国家への基礎を築きましたが、明治十一年、島田一郎らに紀尾井坂で暗殺されました。
 西郷隆盛木戸孝允とともに、明治維新の三傑といわれています。






斎藤茂吉・茂太墓所

『斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年(明治15年)5月14日[1] - 1953年(昭和28年)2月25日)は、日本の歌人精神科医伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。精神科医としては青山脳病院(現在の都立梅ヶ丘病院や斉藤病院)の院長を務めた。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こと斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫で、随筆家の斎藤由香はこの北杜夫の娘にあたる。』
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『斎藤 茂太(さいとう しげた、1916年3月21日 - 2006年11月20日)は、日本の精神科医、随筆家である。愛称はモタさん。』
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◆川上操六墓所

『川上 操六(かわかみ そうろく、嘉永元年11月11日(1848年12月6日) - 明治32年(1899年)5月11日)は、日本の陸軍軍人、華族。官位は参謀総長・陸軍大将。栄典は従二位・勲一等・功二級・子爵。幼名宗之丞。長男の素一は陸軍歩兵少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。桂太郎児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。 』
川上操六 - Wikipedia








続く。