2020/09/17 南青山散歩 04 青山霊園 05

野津道貫墓所

『野津 道貫(のづ みちつら / どうがん、天保12年11月5日(1841年12月17日) - 1908年(明治41年)10月18日)は、幕末の薩摩藩士、明治の陸軍軍人、貴族院議員。東部都督、教育総監、第4軍司令官を歴任した。通称は七次。諱は道貫。最終階級は元帥陸軍大将正二位大勲位功一級侯爵。兄に陸軍中将・野津鎮雄がいる。 』
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池田勇人墓所

『池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 - 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚、全日本居合道連盟創立者と初代会長。位階は正二位。勲等は大勲位
大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。 』
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中江兆民墓所

『中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日[1])は、日本の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)。自由民権運動の理論的指導者であり、第1回衆議院議員総選挙における当選者の一人。フランスの啓蒙思想ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介したことから東洋のルソーと評される。
「兆民」は本名ではなく号であり、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水に譲り渡している。また、他の号に「青陵」「木強生」がある。本名(諱)は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 』
中江兆民 - Wikipedia





◆金子堅太郎墓所

『金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日(1853年3月13日) - 1942年(昭和17年)5月16日)は、明治期の官僚・政治家。司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官を歴任し栄典は従一位大勲位伯爵。
伊東巳代治、井上毅らとともに大日本帝国憲法の起草に参画。また、皇室典範などの諸法典を整備した。日本法律学校(現・日本大学)初代校長。 』
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◆安藤則命墓所

『安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月19日(文政11年3月6日) - 1909年(明治42年)11月23日[2][4])は、幕末の薩摩藩士、明治期の警察官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。通称・十郎[2]。従三位勲一等。 』
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◆中山信彬墓所

『中山 信彬(なかやま のぶよし / のぶあき、1842年11月17日(天保13年10月15日) - 1884年明治17年)2月17日[3])は、幕末の佐賀藩士、明治期の官僚・実業家。官選兵庫県知事。 』
中山信彬 - Wikipedia

google mapには「跡」となっていて、行ってみたら写真のところ辺りだった。
どこかに移転したようだが調べてもわからなかった。





黒田清隆墓所

『黒田 清隆(くろだ きよたか、旧字体:黑田 淸隆[注釈 1]、1840年11月9日〈天保11年10月16日〉- 1900年〈明治33年〉8月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。

薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。 』
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◆高島鞆之助墓所

『高島 鞆之助(たかしま とものすけ、天保15年11月9日(1844年12月18日) - 大正5年(1916年)1月11日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家、華族薩摩藩士・高島喜兵衛の四男。諱は昭光。称号は陸軍中将正二位勲一等子爵。陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任した。また、現在の追手門学院小学校の前身である、大阪偕行社附属小学校の設立者でもある。当時の自宅は上智大学四谷キャンパスのクルトゥルハイム聖堂として現存する。 』
高島鞆之助 - Wikipedia

クルトゥルハイム聖堂
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志賀直哉墓所

『志賀 直哉(しが なおや、1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に「暗夜行路」「和解」「小僧の神様」「城の崎にて」など。宮城県石巻生まれ、東京府育ち。』
志賀直哉 - Wikipedia





◆近藤眞琴墓所

『近藤 真琴(こんどう まこと、天保2年9月24日(1831年10月29日) - 明治19年1886年)9月4日)は、日本の教育家、思想家。明治の六大教育家の一人、攻玉社創立者日本海軍軍人及び軍属、最終階級は海軍中佐。幼名は鉚之助。江戸生まれ。天保5年(1834年)9月14日に父を亡くし、4歳で家督を相続すると、諱を真琴、字を徽音、通称を誠一郎とした。 』
近藤真琴 - Wikipedia





乃木希典墓所




『乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。』
乃木希典 - Wikipedia


旧乃木邸は近くにある。
2019/11/02 01 「旧乃木邸」一般公開 - ovanの社会科見学


生誕の地も近所。
2018/02/14 大使館スタンプラリー 03 ルーマニア大使館/ギリシャ大使館/乃木大将生誕の地/鳥居坂/旧岩崎邸庭園 - ovanの社会科見学






青山霊園はここまで。
wikiに載っているお墓のリストを載せようと思ったけど、めっちゃ多くてやめた。
僕が巡ったのはほんの一部だったね。
青山霊園 - Wikipedia





続く。