2020/10/04 虎ノ門散歩 06 西桜歩道橋/大坂屋虎ノ門砂場/キッコーマン本社/南桜公園/永谷園本社/国際廃炉研究開発機構

また臼山祝田田町線に出て通りを北へ進む。
愛宕一丁目交差点から外濠環状線を東へ進む。



◆西桜歩道橋









◆大坂屋虎ノ門砂場

現在別の場所で営業しているとのこと。
再開後に来てみたいなあ。







キッコーマン本社

本来の本社は野田にあり、こちらは東京本社。
東証一部上場企業。







◆南桜公園



 南桜公園の周辺は、江戸時代には多くの大名屋敷があった場所で、幕末には老中の堀田正睦中屋敷でした。江戸時代の大名屋敷地には、町名はなく明治5年に南佐久間町二丁目となり、その後の昭和7年に田村町三丁目と改称されました。現在の西新橋二丁目となったのは昭和47年のことです。
 また明治時代からこの一帯は、日本でもっとも早く西洋家具の製造が行われた場所であり、高級家具の『芝家具』の名で全国に知られていました。
 公園やこの周辺の『南桜』の名称は、江戸時代以前にこのあたりから北方に桜田村があったことから南桜といわれたようです。
 公園の設置は、昭和4年関東大震災の帝都震災復興事業により小学校に隣接して開設され、昭和25年に東京都から港区に移管されました。その後、桜小学校の廃校などを経て、面積を拡大して都市計画決定された街区公園として、平成14年から再整備を開始しました。 この公園の中には、かつての小学校の名残である、二宮尊徳像や石碑、石段などを移設し、サクラなどの大きな樹木を残してあります。


石碑


二宮尊徳


南さくら公園と南桜小学校

 関東大震災後の帝都震災復興事業により、昭和三年に、鉄筋コンクリート造の新しい南桜小学校校舎が竣工し、翌年には、隣接して南桜公園が開園しました。
 昭和ニ十年の空襲の戦禍を逃れ、たくさんの子ども達が巣立ち、長い間地域の方々に親しまれた校舎でしたが、南桜公園の拡張整備のため、解体されました。
 公園の中には、小学校敷地にあったソメイヨシノ二宮尊徳像、石碑が当時の思い出を促ぶものとして保存されています。


江戸の園芸

 江戸時代は大名から庶民にいたるまで、園芸がたいへん盛んにおこなわれていました。南桜公園の周辺も、 江戸時代は大名屋敷の立ち並ぶ場所にあり、花木や草花にあふれた界隈であったと想像されます。
 南桜公園では、当時の花木や植栽を再現すべく、江戸の園芸コーナーを設けました。当時、流行した植物には、 「寛永のつばき」 「元
禄のつつじ」「正徳のきく」 「享保のかえで」「寛政のたちばな」などが上げられます。南桜公園の植栽は、中高木では、南桜の地名の由来でもあるサクラ類とウメ、ツバキ、モミジなど、低木類では、ツツジ類やボタン、各種の宿根草などを配植してあります。

つつじ
江戸時代に蹴闘の栽培が流行し、花色や花形のことなる園芸品種が数多く作られた。『錦繍枕』元禄5年(1692)の皐月2品種。
「かつ山」と 「花車」。 この本は鄭環173品種、皐月161品種が収載されている。

うめ
古くから実を薬用や食用にするために栽培していた。江戸時代になると花を観賞するために梅が個人の庭にも植えられるようになった。元禄時代の頃から花色や花の大きさの変わった園芸品種が作られ、枝垂れ性の園芸品種も登場した。

ぼたん
中国では漢代からボタンが植えられ、日本には平安の頃に伝わったという。その後日本でも園芸品種が作られ、江戸初期には寒牡丹も現れている。図は『草木錦葉集』 (1829)にある「ぼたん黄斑」で、葉に変化のあるもの。

さくら
 古くは貴族の行事であった花見も元禄をすぎるころには庶民にも広まった。またこの頃から多くの里桜系の園芸品種が生まれ、今日に残る品種もある。天保年間 (1830-1844)の『群桜花譜」にある「普賢象」と 「楊貴妃」。

つばき
 元禄の頃に京で完成したと思われる『椿花(ちんか)図講」にはすでに617品種の椿がある。図は『魔益地錦抄』享保4年(1719)に収載され
た11品種の中の4品種。


芝地区旧町名由来板

桜田
 もとは桜田善右衛門町(さくらだぜんえもんちょう)、桜田伏見町(さくらだふしみちょう)、桜田和泉町のあったところで、 これらが寛政六年 (1794)、麹町からの出火で類焼し移転した後、 火除地となりました。 享和元年 (1801)より大的場(おおまとば)および馬場地(ばばち)となり、文政七年 (1824) に御厩(おうまや)が設けられ、 維新後は一時菜園となりましたが、 明治五年(1872)に芝新銭座(しばしんせんざ)、金杉川口町(かなすぎかわぐちちょう)、湊町(みなとちょう)の住民の一部をここに移して新桜田町としました。 桜田にできた新しい町であるので、 この名が付けられたようです。

佐久間町
 明治五年(1872)、 白杵藩稲葉伊予守久通(うすきはんいなばいよのかみひさみち)、 小野藩一柳鈴之丞末徳(おのはんひとつやなぎせんのじょうすえのり)、 斗南藩松平容大(となみはんまつっだいらかたはる)の屋敷を併せて南佐久間町(みなみさくまちょう)一丁目とし、 孤野藩土方備中守雄志(こものはんひじかたびっちゅうのかみかつゆき)、佐伯藩毛利安房守高謙(さえきはん もうりあわのかみたかあき)、宮川藩堀田豊前守正養(みやがわはんほったぶぜんのかみまさやす)、小松藩柳兵部小輔(こまつはんひとつやなぎひょうぶしょうゆう)、佐賀藩阿部正恒(さがはんあべまさつね)の諸藩邸および一之関藩田村氏別邸(いちのせきはんたむらしべってい)、 その他の土地を併せて二丁目としました。 町名は、南佐久間町一、二丁目の間を俗に佐久間小路と呼んだことに由来し、そこには四、五軒の佐久間家が居住していたようです。南の字を加えたのは、神田佐久間町と区別するためと推測されます。

桜田備前町(さくらだびぜんちょう)
 むかしは桜田村と呼んで霞が関の辺りにありましたが、 徳川家康入国後、 江戸築城のため用地となり、幸橋門外(さいわいばしもんがい)から一町ほど西方の堀端(ほりばた)へ移転し、桜田備前町と唱えました。 寛政六年(1794)、麹町からの出火で類焼して火除地に召し上げられ、同年、 中奥小姓大久保伊賀守(おおくぼいがのかみ)の屋敷跡に代地を与えられました。 町名の由来については、 伝えがないのでわかりません。

桜田鍛治町
 むかしは桜田村と呼んで霞が関の辺りにありましたが、 徳川家康入国の後、江戸築城のため用地となり、幸橋門外の西方の堀端通りに移されました。町名は鍛治所の役所となり、 鍛治職人が多く住居していたことに由来すると伝えられます。 寛政六年 (1794)、 麹町からの出火で類焼
して火除地に召し上げられ、 同年、柴田七九郎、 大村信濃守(おおむらしなのかみ)の屋敷跡に替地を与えられました。

桜田太左衛門町
 むかしは桜田村と呼んで霞が関の辺りにありましたが、 徳川家康入国後、江戸築城のため用地となり、虎の門外の堀端通りに移されました。 一説によると、 与左衛門、 佐左衛門両人の草創したところで、太左衛門はこの町の名主の名と思われます。 寛政六年 (1794)、 麹町からの出
火で類焼して火除地に召し上げられ、 同年、 分部(わけべ)左京亮の屋敷跡に代地を与えられました。

桜田久保町
 むかしは桜田村と呼んで霞が関辺りにありましたが、徳川家康入国後、 江戸築城のため用地となり、虎の門外の堀端通りに移されて、 久しくたもつ町と書くように命じられ、 桜田久保町としたと伝えられています。 あるいは、 名主久保清左衛門が草創した町であるとも伝えられます。 寛政六年(1794)、麹町からの出火で類焼して火除地に召し上げられ、同年、一柳献吉(ひとつやなぎけんきち)の屋敷跡へ代地を与えられました。 江戸時代には、 他の桜田七ヶ町や兼房町(けんぼうちょう)までも俗に久保町と称し、 特に桜田久保町を区別するため、 皆久保町と唱えていました。


田村のお化銀杏

 江戸時代から大正時代にかけて、 この界隈から南方面を望むと「田村のお化銀杏」と呼ばれた大銀杏が見えたといいます。 このあたりがまだ武蔵野原であった頃に芽ばえ、高さ数十丈にまで生長したというその老巨木が夜の闇に浮かび上がる姿は、まさに「お化け」に見えたことでしょう。しかしこのお化銀杏、 その大きさゆえ海上からのよい目印となり品川沖の水夫や船頭たちに親しまれてきたという側面ももっていました。
 また、お化銀杏があった場所は江戸時代、奥州一関藩田村家(おうしゅういちのせきはんたむらけ)の上屋敷であり、元禄十四年(1701)三月十四日に江戸城内松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩浅野内匠頭切腹し、 終馬を迎えた地でもあります。
 このように時代の事件をいくつも見てきたと思われるお化銀杏ですが、大正十二年(1923)に関東大震災でほぼ焼失しました。








永谷園本社

株式会社永谷園は株式会社永谷園ホールディングスの子会社だった。
両方とも本社はコチラのビル。
ホールディングスの方は東証一部上場。







◆技術研究組合 国際廃炉研究開発機構



活動は廃炉研究などだね。
技術研究組合 国際廃炉研究開発機構 – IRID | IRID=アイリッドは国内外の叡智を結集し、廃炉のための研究開発に、一元的なマネジメントに取り組んでまいります。








続く。