2020/10/06 芝公園散歩 03 芝公園(もみじ山・東京タワー・宝珠院 等)

芝公園、東京タワーのまわりを散策。

芝公園の西側エリア。



◆長柏園(ちょうはくえん)跡の碑



 長柏園は、わが国近代の造園界の先覚者である長岡安平翁 (1842~1925)の邸の称である。
 翁は肥前大村藩士であったが、独学で造園を修め明治3年、先輩であり、後の東京府知事となった楠本正隆と共に上京以来、東京府東京市・通信省に奉職し、府.・の大小公園の設計を始め全国各地の公園の設計、各種造園を成したばかりでなく、老樹名木の保存·街路樹植栽等に及ぶ幅広い緑に関する卓越した見識を持ち、多数の後輩を育てた。
 芝公園においても明治38年紅葉滝及び渓流の設計を行ったほか数々の改良設計を行った。
この碑は昭和2年12月20日翁の2周年忌を期して知友一同が跡地に建立したものである。



近くにあった地図







増上寺塔頭 三縁山 宝珠院

こちら正面は閻魔堂。
同じ建物右脇に弁天堂と本堂がある。



閻魔堂

 江戸時代には「芝の閻魔さま」と呼ばれ、正月と盆の16日に「地獄の蓋があく」といって
参詣人が群集し、門前には露店が立ち、見世物小屋が掛って賑わった。
 閻魔大王坐像は、寄木造、 高さ2mの大王で、貞享2年 (1685) 作。
 人頭杖 (男神、女神)、司録、司命の二像を従えている。


弁天堂/本堂


水子地蔵


紅蓮白蓮の弁天池




中島の弁天社
 明治6年(1873)の太政官布達第16号により芝公園になる以前より、 増上寺の山内丘陵の西後方、 境内裏鬼門にあたる位置に弁天池いう広大な蓮池があり、 夏には江蓮白蓮が混ざり合う、 清香馥郁(せいこうふくいく)として奥深く静かな景勝地でした。
 池中の中島には増上寺三十世霊玄上人の時に弁財天が勧進され、弁天堂ができました。 弁財天は一尺余りの腰かけ像で、9世紀に智設大師によって作られたものが源頼朝、 北条家に篤く信仰され、 その後徳川家康増上寺に移したと伝えられています。
 また、島には稲荷妙見菩薩も並んで記られ、 現譽公記に 「丸山の麓に池あり、二月の頃は近郷の百姓もみを浸して番をなす故に、池の中に少しの島を築き、 稲荷の詞をかまへり」 とあります。 明治維新までは両方の社がありましたが、現在では隣の宝珠院内に記られ、現在、弁財天は港七福神の一つとして親しまれています。
 弁天池の名は、古くは 「さよ」 という女が身を投じた故に呼ばれた「さよが池」、 また「ゆりが淵」などとも言ったと伝えられています。また、 池中に架かる石橋を接蓮橋、 又は美蓉橋といい、 これも霊玄上人の命名したものです。


宝珠院から見た東京タワー







◆うかい

『株式会社うかい(英語: UKAI CO., LTD.)は、料亭や美術館などを運営する東京都八王子市に本社を置く日本の企業。 』
うかい - Wikipedia

芝公園のうかいはもっと昔からあったイメージなんだけど、最近なんだね。
ジャスダック上場企業なのはビックリ。







◆東京タワー

昇らずに脇を通過。







◆如意輪観世音

東京タワー脇、道路の反対側にあった。







◆もみじの滝

如意輪観世音から東京タワーの反対側に坂を下りたところにあった。




 もみじの滝は、日本人初のランドスケープデザイナー長岡安平の設計により1905年 (明治38年) に築造されました。
 深山幽谷の趣が残る崖線を利用した滝が設けられており、自然の地形を生かした設計を好んだ安平の設計思想が現れています。
 幾度かの改修を経た今も当時の面影を感じさせる景観を楽しむことができます。







◆蛇塚

説明板などは無かった。



こちらの歩道脇にあった。







◆複眼的報道の塔

google mapのマークよりもうちょっと南にあった。



 この塔は単眼的な思考に陥らず中立、公正で迅速かつ的確な複眼的報道に徹する当協会の理念を表すものである。
 ここに未来を展望し時代を見すえ悠久の時を刻むソーラー電波時計付き「複眼的報道の塔」を建立し、社会文化の振興に寄与せんとするものである。






続く。