2020/10/12 増上寺散歩 07 増上寺

情報量が多いので1ページにした。
10月1日から屋根の葺き替え工事なんだってね・・・・。
もう少し早く来ればよかったなあ。







<2015/04/01撮影>




三縁山 広度院 増上寺
 浄土宗の七大本山の一つ。
 三縁山広度院増上寺 (さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。
 開山は明徳四年(1393)、浄土宗第八祖 西誉聖聡 (ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚 (現在の千代田区紀尾井町) の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。
 江戸時代初期、増上寺法主第十二世 源誉存応 (げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依 (きえ) を受け、手厚い保護を受けました。
 慶長三年(1598 )に現在の地に移転し、徳川将軍家菩提寺として、また関東十八檀林 (だんりん) の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
 その規模は、寺領一万石余、一二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
 現代でも浄土大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。



沿革

 浄土宗の七大本山の一つ。三線山広度院上寺 (さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。
開山は明徳四年(1393年)浄土宗第八祖 西誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(1598年)に現在の地に移転しました。
 文明二年(1470年)には勃願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきました。
 江戸時代初期、増上寺法主十二世 源誉存応(げんよそんのう)上人後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行きました。
 徳川将軍家菩提寺として、また関東十八壇林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。
 その大きさは、寺領一万石余。二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。
 現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ.建造物、古文書、経など多数の重要文化財を保管しています。









◆三解脱(さんげだつ)門



 慶長十六年(1611)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭、中井大和守正清によって建立され、元和八年(1623)に再建されました。
 この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。
 三解脱門は、別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく、むさぼり)、瞋恚(しんに·いかり)、愚痴(ぐち-おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。
 建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。
 その大きさは、間ロ十間余(約19m)奥行五間(約9m)高さ七丈(約21m)の二重建て構造。
 さらに左右には三間(約5.4m)の山廊を有しています。
 上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されています。









◆宗祖法然上人御光誕850年慶讃 タイムカプセル 記念埋設の標

左半分が判読できず文字化を断念・・・。
三解脱門から入ってすぐ右側にあった。









◆聖観世音菩薩









◆仏足石



 仏足石は仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。
この仏足石は、当山第70世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。








◆魚供養之碑



 魚がしに会社を起こし、水産物を商って三十七年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。
 今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。
 願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。









◆ブッシュ槙(コウヤマキ



米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57 年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植されました。









◆詠唱発祥の地

増上寺のHPに・・・。
終戦直後の焦土と化した昭和21(1946)年、増上寺山内の浄土宗宗務所において、宗門教化のため詠唱を以って始められたことは、檀信徒を勇気づけ、こころの安穏を取り戻すことでした。そして、増上寺を詠唱発祥の地としたのでありますが・・・・』
とあった。
吉水講|関係団体|大本山 増上寺









◆水盤舎



 この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体、昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。
 徳川将軍家霊廟建築 を伝える数少ない遺構のひとつです。



 元は清揚院(三代将軍徳川家光の三男・六代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は、延宝六年(1678)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺本堂裏手に営まれていましたが、昭和二十年(1945)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにそのほとんどが焼失しました。
 この水盤舎は綱重の御霊屋建築の内、現存する唯一の建物であるとともに、徳川家霊廟の建造物として現存する数少ない遺構として貴重なものです。









◆聖鋏観音



 この聖鋏観音像は、昭和五十六年八月三日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。
 願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。
 聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。
 毎年八月三日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される。

ハサミ供養法要が厳修されハサミは観音菩薩の御手そのものである









◆慈雲閣









◆土木建築殉職者慰霊塔



土木建築事業ハ一國文化ノ
象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ
能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築ク
や固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖
レス斯ノ高業ニ従フモノ洵
ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ
而シテ不幸ソノ職ニ殪レシ
モノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其
ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナラ
ンヤ茲ニ全國同業者ノ寄進
ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永
ク其ノ菩提ヲ弔ハントス


調べるとこんなサイトが見つかった。
土木建築殉職者慰霊塔について | 一般社団法人 全国建設業協会









増上寺旧方丈門(黒門)




 増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために黒門ともよばれた。
 四脚(しきゃく)門で、建造年代を明らかにする棟札(むなふだ)などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のもの
と推測される。
 蟇股(かえるまた)には唐獅子や壮丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風触のため、古色をおびているが、挑山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。










増上寺経蔵



 増上寺は明徳四年(1393)酉誉聖聡により武蔵野国豊島郡貝塚(現千代田区)に浄土宗の正統念仏伝法道場として創建され、慶長三年(1598)現在地に移転しました。慶長十年(1605)から増上寺は幕府により浄土宗教義に基づく本堂・三門・経蔵・表門。方丈・学寮・諸堂などを配置した大伽藍が造営され、やがて徳川将軍家菩提寺、浄土宗の関東十八壇林の筆頭に就き、浄土宗宗教を総括する総録所となりました。
 経蔵は慶長十年(1605)に創建され、天和元年(1681)十二月に改造移築し、さらに享和二年(1802)六月現地に移しました。構造は土蔵造、白壁仕上げ、一重、屋根宝形瓦葺き、四方に銅板裳階付き、建坪42.24坪(139.66㎡)、軒下高さ21尺(6.36m)。経蔵内部には、中央に軸を立て八面の経巻棚を設け、これに経巻を納め、事由に回転できる八角形の木造輪蔵を安置しています。これには徳川家康が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経重要文化財)が格納されています(現在は別に保管されています)。









増上寺会館










◆石碑



判読ができず文字化を断念。










◆幼少の法然さま










◆祐天桜










◆暗黒殿と黒本尊



 この建物は徳川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を記る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(1974)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。
 建物の老朽化に伴い、平成二十三年(2011)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。
 「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが記られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。









◆西向観音像

 西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。
 将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本像とともに多くの庶民の信仰の対象として今に続いています。










◆千躰子育地蔵菩薩(せんたいこそだてじぞうぼさつ)
]


 
 子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、それぞれのお施主様がお建てになりました。
 幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」 「風車」をお地蔵さまに奉納しています。
 地蔵菩薩像には触らないでください。









◆徳川将軍墓所

 戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。
 墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。
 その後昭和二十年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。
 正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前『中門』であったものを移築しました。
 左右の扉は共に青銅製で五個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今ラに伝える数少ない遺構です。
 墓所には、二代秀忠公・六代家宣公·七代家継公・九代家重公・十二代家慶公·十四代家茂公の六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静静寛院(十四代家茂公正室和宮)ら五人の正室桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。


鋳抜門

 増上寺徳川将軍家菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和二十年(1945年)三月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和三十三年(1958年)に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画にまとめられた。
 

明治期の増上寺御霊屋図


増上寺御霊屋


全景


合祀塔


十四代将軍御正室静寛院皇女和宮


昭徳院殿十四代家茂公


文昭院殿六代家宣公


台徳院殿三代秀忠公


有章院殿七代家継公


惇信院殿九代家重公


慎徳院殿十二代徳川家慶









◆四菩薩像



正面から
普賢菩薩(ふげんぼさつ)   (辰年守本尊)
地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)     (子育地蔵)
虚空蔵菩薩 (こくぞうぼさつ) (丑寅守本尊)
文殊菩薩もんじゅぼさつ ) (卯年守本尊)

 もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。
 西向の観音像に対し東向きであった。
 正嘉二年 (1258)の作と伝たえられる古像である。



 向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の四体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉二年(1258)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。









◆お歌の由来

他の水ひとのこころに似たりけり
  にごりむことさだめなければ

法然上人の御作、変わりやすい人の心を池の水にたとえてお歌に示されたものである。


お歌の由来

月かげの いたらぬ里は なけれども
    ながむる人の 心にぞすむ

観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して、念仏の衆生を摂取して捨てたまわ」の意と、法然上人がお歌に示されたものである。浄土宗の宗歌になっている。


鐘楼堂

 増上寺の南西には九州の有馬や島津の藩邸があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」「てもさても諸国へ響く芝の鐘」などの句もあり、当時の江戸の人びとの自慢も、実感を伴っていたことが窺われます。



 寛永十年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大楚鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。
 徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。
 その大きさ、高さ一丈(約三メートル)重さ四千貴(約十五トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。
 江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」·「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」·「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。









◆写経塔










熊野神社


熊野三所大権現宮(ゆやさんしょだいごんげんぐう) 由来記

増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。

御神体
 熊野本宮大社 家津御子大神(ケツミコ ノ オオカミ)
 熊野那智大社 大己 貴命(オオナムラノミコト)
 熊野速玉神社 伊伊弉諾尊イザナギノミコト)
以上の三御神体を記り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。
祭禮は毎年三月三日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は四月第三日曜日に定まる。


綿貫次郎創立四十周年記念碑



西暦1974四年(昭和四十九年)故_綿貫次郎翁 (通称右じいちゃん)は每日增上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。
増上寺の繁栄を願い、若者達のカでお手伝いをしようと関係のある神輿仲問に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。
増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。
江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講 」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに四十周年を記念し石碑を建立いたします。


手水舎



三本足の鳥 [八咫烏(やたがらす)]

『神々のお使い』
日本書紀によると
 神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。
そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。

『日輪の中に三本足の鳥』
 ルーツは中国で、太陽の中に三本足の鳥が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は鳥によって空を運ばれるとも考えられました。
島の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である『三』こそが太陽にふさわしいと考えられます。
日本に於いても、三本足の鳥が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。
また時代によっては、『地・仁・勇』或いは『天・地・人』を表すとも言われています。
日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の鳥と八咫烏が習合し、熊野の鳥も三本になったものと考えられます。

『シンボルマーク』
 天皇即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八隈島の刺繍が施されているそうです。
近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。
 私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の鳥の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。
皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。






続く。