2020/10/28 杉並桃井散歩 03 江戸向き地蔵と三山百番供養塔/越川病院/庚申塔/浅間神社/富士塚

青梅街道沿いに南東へ歩く。



◆江戸向き地蔵と三山百番供養塔



 三体の地蔵菩薩立像と、一基の三山百番供養塔が造立されています。これらは、江戸時代以降、地域の人々が願いを込めて造立した民間信仰石造物です。
 中央の地蔵菩薩立像は、享保十四年(1729年)に造立され、通称「江戸向き地蔵」と呼ばれていたと伝わります。
 また、この場所において、地域の人々が集まって念仏を唱え、死者の供養を行う念仏講等の活動が行われていたと言われています。
 三山百番供養塔は、文政九年(1826年)に造立され、江戸時代に流行した坂東三十三番、秩父三十四番、西国三十三番の角巡礼場所を足した百番と出羽三山の巡礼を終えた巡礼記念として作られたものと考えられます。
 また、楚字で「観世音」と刻まれていることから、その功徳を地域の人々に施す目的もあったと思われます。









◆越川病院








庚申塔









浅間神社









富士塚



↑斜め横からじゃないと写真が撮れなかったので、アプリで補正した。

 こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。
 浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので、富士信仰とも言われました。富士信仰は、集団になって資金を集め、代表者が登拝する体表制を主流にした富士行によって発展を遂げていきました。
 富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創初され、十八世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く、井草周辺では昔の村名である「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」(を〇←●の中に「を」講)という講が戦前まで続いていました。
 富士塚は、実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすにうにら造られ、現在も都内に約五十ヵ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。
 以前は本殿西南屋形にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社にり丁度西遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。
旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています。








続く。