2020/10/28 杉並桃井散歩 04 井草八幡神社

情報量が多いので1ページにした。



◆拝殿




 この神社は旧上、下井草村の鎮守です。御祭神は八幡大神で、明治時代までこの付近の古い地名から遅野井八幡宮とも呼ばれていました。
 境内東側付近からは縄文時代中期(約四千年前)の住居址が発見され、多くの土器が発見されました。その中の顔麺把手付釣手形土器は、国の重要文化財に指定されております。このように当社周辺は太古の昔から森もあり水も豊かで、生活に適した景勝の地であったと思われます。
 当社は九百余年の歴史をもつと伝えられ、社前には源頼朝が文治二年(1186)奥州藤原泰衡征討の際、戦勝を祈願して手植寄進したという天然記念物の大きな松がありましたが、残念ながら昭和四十八年枯れてしまいました。また、江戸時代の慶安二年(1649)徳川家光は、社殿を造営させ朱印領六石を寄進しております。
 祭日は十月一日を中心に、三年ごとに神輿の渡御、五年ごとに鎌倉の昔をしのぶ珍しい流鏑馬(やぶさめ)の神事が行われています。



 当宮の鎮座地は武蔵野台地の真っ只中にあり、当社の境内及び周辺の地域からは、石器時代の居住跡が数多く発見され、種種の土器や石器が発見されています。中でも縄文中期の釣手型土器(当社所蔵・重要文化財)は、儀式に用いられたもので、当社が古代の聖地の上に位置し、古くから崇めれて来たことがわかります。
 文治五年(1189)源頼朝奥州藤原氏征討の途次、当社に祈請しましたが、この年は干天続きで水が涸れていました。伝説では、頼朝自ら弓で地面に穴を穿ち、七度目にしてようやく水が湧き出しました。水の出があまりに遅かったことから、この湧水は「遅の井」と名付けられました。江戸時代までこの地は遅野井とも呼ばれ、当社は遅野井八幡宮と呼称されていました。
 源頼朝の来参により、春日社をお祀りしていた当社は八幡宮としての形態を整えていきます。
 文明九年(1477)には太田道灌石神井城の豊島氏を攻めるに際して、当社に戦勝を祈願したと伝えられています。
 江戸時代に至って三代将軍家光は朱印地(六石)を寄進し、以後江戸末期の蔓延元年(1860)に及んでいます。地頭の今川氏も深く当社を尊崇し、氏堯が寛文四年(1664)に改築した本殿は、現存する杉並区最古の木造建築物であり、拝殿の奥の覆殿に納められています。
 明治の制では、村社と定められ、昭和三年郷社に、昭和四十一年には別表神社に列せられ今日に至っています。
 十月の例祭日には、三年に一度神幸祭、五年に一度古式流鏑馬神事が行われます。



 井草八幡宮を中心とする地域は、武州多摩郡遅野井村として古くより開けました。
 江戸時代に入ってからは、青梅街道を通じて野菜の生産や薪で生計をたてる農村として発展しました。
 ウドは数少ない日本原産野菜で、古代より自生のものが利用されていました。元来、強健な野菜で武蔵野にもよく適しましたが、この地で栽培されたのは江戸時代後期で、記録によれば文政年間(1818〜30)旧武州多摩郡上井草村寺分(現在の杉並区西荻北)の古谷岩右衛門が尾張(現愛知県)で栽培法を習い、試した結果、立派なウドができたので付近一帯に広まっていきました。当時は野菜の種類も少なく、特に早春の香りとシャッキとした歯ざわりで、ウドは庶民の待望の野菜でした。
 ウド生産は明治、大正、昭和にかけて、多くの篤農家による創意と努力で、地下で日光に当てずモヤシ状に作る栽培技術を確立しましたが、昭和30年代に入り都市化の進展により、この地の栽培量は大幅に減少しました。
 その後、北多摩方面に移った産地は、「特産東京ウド」として、全国にその名声を博しましたが、井荻ウドはその発展に大きく貢献いたしました。










板絵着色遅の井伝説図/板絵着色榛名山社頭図

板絵着色遅の井伝説図一面
 この板絵は上井草村の旧名遅の井の地名起源を描いたもので、天保十一年(1840)に上井草村の本橋勝三郎が奉納したもので、伝説によれば源頼朝がこの地に宿陣した際、水を得るため井戸を掘ったが、水の出があまりに遅いので、「遅の井」と名づけたといわれています。弓で井戸を掘る源頼朝と傍らで見守る二人の武将を描いた図柄はその伝説に基づいています。水と英雄伝説が結びついたこの板絵は、豊作を祈願する農民の心情をよく現わしており、現在は、当宮文華殿に保管されています。

板絵着色榛名山社頭図
 この板絵は井草村を中心とする榛名講中が、文政十二年(1829)に奉納したものです。横160㎝、縦121㎝の大きな画面には、榛名神社の社殿、社頭の図および参拝する人々の姿が力強いタッチで描かれています。また下部には区外の村々をも含む七三名の奉納者名がみられ、古くから農民の信仰を集めていた榛名講の隆盛さと広がりをうかがわせます。区内でも古い年代に属するこの板絵は、当時の神祇信仰と神社参拝の慣習や風俗を伝える好資料で、現在は、当宮文華殿に保管されています。










楽殿










文華殿










招神殿










頼朝公御手植の松



 鎌倉時代初頭の文治五年 (1189)、源頼朝公は奥州藤原氏の征伐に向かう途次、当神社に戦勝祈願に立ち寄りました。 その後、無事奥州平定に成功した頼朝公は、
その報賽として建久四年 (1193)、社頭に雌雄二本の松を自らの手で植え奉献されました。
 雌松 (赤松) は明治時代に枯れてしまいましたが、雄松 ( 黒松 ) は約八百年の間、井草地域の標徴として仰ぎ見られていました。 東京都の天然記念物にも指定され、高さ約40m・周囲約5m、大人三人でやっと抱えられるほどの威容を誇っていました。
 しかしながら、昭和四十年一月、強風によって二股に分かれた大幹の一方が折れ落ちて以来、急速に衰え終には枯れてしまいました。
現在、神門内側にある衝立は、その根を輪切りにしたものです。現在の松はその大松の末流にあたり、二代目の御手植の松として大事に育てられています。










新町稲荷神社/三谷御嶽神社三峰神社・新町御嶽神社/〇〇〇〇神社 ←判読できなかった。


新町稲荷神社


三谷御嶽神社三峰神社・新町御嶽神社


〇〇〇〇神社



判読できなかった。
ご存知の方教えてください。
ぺこ <(_ _)>










祓戸神社










三宮神社











力石



 昔この辺り一帯は井草村と呼ばれ、のどかな田園地帯で近郷の人びとはそのほとんどが農業に携わっていました。日頃、米俵などの重いものを持つことも珍しくなかった当時の青年男子は自然に鍛えられ、その勇力を競い合いました。 当神社では、かつて毎年例祭(十月一日)に近郷の力自慢の若者が集まり、社頭で「石担ぎ」を演じ力石を奉納する慣わしがありました。
 現在、ここにある十六個の力石は主に嘉永二年と大正七年に奉納されたもので、最も重いもので六十貫目(約225kg)もあります。










井荻町土地区画整理



 この後ろの、柵の中にある石碑は、昭和15年5月1日に区画整理事業の完成を記念して、井荻町土地区画整理組合によって建てられたものです。井荻地区の土地区画整理事業は井荻村全域を区画整理の対象としたもので、当時の井荻村長だった内田秀五郎らによって計画されました。大正14年には内田を組合長として井荻村土地区画整理組合(後には井荻町)を設立し、10年後の昭和10年3月に区画整理事業を完了させました。整理総面積は888町歩(約888ヘクタール)に及び単一町村独自で行った事業としては、全国屈指の大規模ですぐれた街づくりでした。
 碑の正面にはこの区画整理事業の経過を、裏面には組合役員132人の名が刻まれています。撰文は石川兼六、揮毫は正面篆額林博太郎、裏面篆額岡邨恒夫、正面碑文及び裏面人名は持田貫道です。
 高さ617.5センチの棹石(粘板岩)と高さ約100センチの台石(花崗岩)からなる当碑は、区内にある記念碑としては最大のものです。棹石は石巻、台石は筑波山の産で、現地より特別仕立ての貨車で荻窪駅まで運び、駅からこの地までトラックで牽引して運んだということです。緑豊かなこの敷地は、宮司及び氏子の方々のご協力を得て選ばれたものです。
 本碑は、東京近郊農村であった井荻地区が都内でも有数の郊外住宅地として発展する基礎をつくった区画整理事業の完成を伝える記念碑です。










北鳥居










大鳥居








続く。