2020/11/04 関西旅行3日目 宮島散歩 03 厳島神社

情報量が多いので1ページにした。



厳島神社



 厳島神社は霊峰弥山を背景に、全面を海に望む入り江に建つ神社建築で弥山などを御神体として祀り、遥拝所をその麓に配置した日本における社殿建築発展の形式の一つです。
 社殿構成は12世紀に平清盛の造営により、当時の寝殿造りの様式を取り入れて整備されましたが、その後焼失し、鎌倉時代に再建されました。海に建つ木造建物として過酷な環境下にありながら、大内氏や毛利氏、豊臣氏などの庇護に支えられて古い様式を今日に伝えています。
 また、神社建築に加えて五重塔・多宝塔などの寺院建築も加えられ、神道と仏教との混交を示す文化遺産として、世界に類を見ない景観を造りだしています。世界遺産の範囲は厳島神社境内地と弥山北斜面の431.2ヘクタールが登録され、それ以外の島内が緩衝保護区として設定されています。







◆パンフレットより







◆客(まろうど)神社

厳島神社全体の入り口にあたる部分でもある。
こちらも工事中だった。



各神社(摂・末社)がこのような廊下で繋がっている。
よくテレビで見るあの姿(建物全体)は「厳島神社」だけなのかと思っていた。








卒塔婆

鬼界ヶ島に流された平康頼が母恋しさに千本の卒塔婆に二種の和歌を書いて海に流した
そのうちの一本が池の中の石に流れついたといわれる。








◆康頼燈籠

鬼界ヶ島の配流先から許され帰京した平康頼が神恩を感謝して奉納した灯篭と伝えられています。








◆特別公開 ー社殿扁額「伊都岐島神社」ー

 社殿側に褐げられているもので「伊都岐島神社」(草書休・万葉仮名)の六丈字が青銅製鋳物で打ち付けられています。
 「伊都岐島」とは「身心を清めて神に仕え奉る島」であることを意味し、島の古い名称を踏襲しています。額縁の彫刻は、屈輪(くり)模様の渦巻文と唐草文となっています。裏面には有栖川宮熾仁(たるひと)親王の御染筆であることが分かる、「明治七年甲八四月二品熾仁親王謹書」との刻名があります。
 甲戌(こうじゅつ)は干支の一っで「きのえいぬ」とも流み、二品(にほん)とは四品(しほん)まである親王の位階(いかい)の第二等のことです。








◆特別公開 ー社殿扁額「厳島神社」ー

 当社の大鳥居は、明治八年(1875)の再建で、平安時代末期に平清盛公が造営した鳥居を初代とすると八代目にあたると考えられています。
 杜殺側 と沖側に有栖川宮熾仁親王の御染筆(ごせんひる)による二面の扁額を掲げています。額は、木製の漆箔銅板装で縦2.6m、横2.45mです。
 二面を掲げる形式となった経緯は明らかではなく、記録や実物が残るのは、四代目とされる天文一六年(1547)の大島居扁額からで、それ以前については詳らかではありません。

ー沖側扁額「嚴嶋神社」ー
 沖側に掲げられているもので「厳島神社」(行書体)の四文字が青銅製鋳物で打ち付けられています。
 額面は、鏡板を黑漆塗、縁取りを弁柄朱漆塗とし、御神紋てある三亀甲剣花菱紋(みつきっこうけんはなびしもん)と連珠(れんじゅ)文を銅板などで表しています。 額緑は黒泰で塗られており、上辺中央に宝珠8ほうじゅ)、左右に屈輪(くり)模様の渦巻文と唐草文を配しています。左右辺の彫列は雲龍で向かって右が登り龍、左が降(くだ)り龍てす。
 四方の蕨手(わらびて)状の師りには 銅板を被せています。








◆門客神社

左側



右側








能舞台










◆大國神社







◆天神社








◆反橋








◆出口









◆宝物館








◆神馬舎

こちらは入り口前にあった。






豊国神社、五重塔は後ほど訪問した。
早い時間だったのでゆっくりお参りすることができた。
午後はやっぱり混んでいたね。

続く。