2020/11/06 関西旅行5日目 奈良散歩 04 東大寺

東大寺


金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である[2]。現別当(住職・222世)は狹川普文。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。
東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 』
東大寺 - Wikipedia


由緒の書かれた看板が無かった?
ので、wikiの説明から。



境内図







南大門

『国宝。平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗房重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものである。 』
東大寺 - Wikipedia








肢体不自由児施設 重症心身障害见(者)施設 東大寺福祉療育病院



 今から約1250年前、聖武天皇は、人間だけてはなく動物 も植物も全ての生き物が栄えることを願って大仏さま(盧舎那仏(るしゃなぶつ))を造られ、そのお后の光明皇后は、今の福祉施設にあたる悲田院(ひでんいん)や施薬院(せやくいん)を建てて人々のために尽くされました。
せいしえん
 このお考えに則(のっと)り、東大寺では聖武天皇1200年御遠忌記念事業として、昭和30年に東大寺整肢園(せいしえん)を開設致しました。ここでは、身体の不自由や重い障害を持っ子供たちをお預かりして療育(治療と教育)をすることで、そのお心を受け継いでいます。また、現在は一般整形外科小児科などの外来診療やリハビリテーション及び在宅障害児のショートステイや通園事業案などにも取り組んでいます。
 大仏さまの精神を今の世に生かす施設として、皆さまのご理解とご協力をよろしくお願い致します。








合津八一歌碑



おほらかに もろてのゆびを ひらかせて
   おほきほとけは  あまたらしたり

 會津八一が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集『南京新唱』に所収されている。
「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます」という意。
 奈良の大仏即ち廬舎那仏は、『大方広仏華厳経』に「宇宙の中心にあって智慧と慈悲の光明をあまねく照す仏」と説かれていて、全宇宙の真実の仏とされている。
 昭和二十五年、會津八一古稀を祝う事業のひとつとして建立され、書は八一の自筆、彫りは喜多枡太郎による薬研彫りの手彫りである。

 昭和二十五年十月十二日除幕  碑石 高さ2.8m 幅70cm
 北木島 (岡山県笠岡市)産花尚岩

會津八一(1881~1965) 号は秋州道人
大正・昭和期の歌人・書家・美術史家。早稲田大学教授,歌集「鹿鳴集」「南京新唱」など








谷川喜六建立慰霊碑



奈良の仏教篤信者である谷川喜六氏が、明治十年(1877) 西南の役戦没者、明治二十五年 (1892)瀬戸内海に沈没した軍艦千島の殉職者、及び喜六氏の父の五十回忌の慰霊法要を、明治二十六年四月八日(潅仏会) に私財を投じて大仏殿で盛大に営んだ。この石碑はそれを記念して建立された慰霊碑である。
表面の上部の「義勇奉公」の題額は小松宮彰仁親王、「西南役陣亡」「陸海軍人之碑」「千島艦水没」は伏見宮文秀女王の筆によるものである。
裏面の文章は、当時の奈良県知事の古沢滋氏によるもので、筆者は能筆家の日下部東作氏(号・鳴鶴)である。日下部鳴鶴は明治政府の近代化路線を推進する指導者の一人として活躍するが、独自の書風を確立して書聖と称えられ、厳谷一六、長三州とともに「明治の三筆」と称せられた。








五百立山(いおたち)神社



「五百立山神社参道 鐡道供養塔」
とあった。








鏡池


天然記念物 東大寺鏡池棲息ワタカ

 ワタカは、琵琶湖およびこれに接続する淀川水系に産するコイ科の淡水産硬骨魚で、体は細長く側扁する。腹びれ基底から肛門までの腹縁部は竜骨状の隆起縁を形成する。頭は小さく眼は大きい。口は眼より前方にあり、やや上に向く。胸びれ、背びれ、尻びれの前縁部は概して長い。体色は銀白色で、背部は緑青色である。体の側線は完全で下方に強く湾曲する。成熟した雄では、粗粒状の追星が頭部、背面、胸びれにあらわれる。ヨシ場を主な生息場所とし、琵琶湖では湖南、湖東の沿岸や内湖に生息する。河川では下流域の”わんど”(入江)や、流れのほとんどない水路に多い。水草を主体とする雑食性である。
 産卵期は六月~八月で日本産コイ科魚類のなかでは最も高22℃~25℃の水温で、主として降雨後の夜間に産卵する。雌雄とも二年で成熟する。
 奈良県下では、東大寺鏡池のほか、石上神宮鏡池に棲息する。


池の水ぜんぶ抜く
という番組では実際に「ワタカ」を確認したとのこと。
参考
「池の水ぜんぶ抜く」東大寺の鏡池に天然記念物!ワタカの存在は? | Coffee and Something .....








中門









大仏殿

東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)は、奈良県奈良市東大寺にある仏堂。東大寺の本尊、盧舎那仏坐像(奈良の大仏)を安置している。
正式には東大寺金堂というが、「大仏殿」の名で広く知られ、東大寺の公式ホームページでも主に「大仏殿」が使用されている。この記事でも、以下「大仏殿」と表記する。
大仏殿は、1181年(治承4年)と1567年(永禄10年)の戦火で2度にわたり焼失し、現在の建物は1709年(宝永6年)に落慶したもので、日本の国宝に指定されている。 』
東大寺大仏殿 - Wikipedia



奈良の大仏様。
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏(ならのだいぶつ)として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
正式には大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」というが、本項では以下「大仏」、「大仏殿」とする。また、文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。 』
東大寺盧舎那仏像 - Wikipedia









花まつり千倍法要記念宝塔



 昭和63年(1988年)4月26日、全日本仏教青年会は、仏注典隆の願いをもって「花まつり千増法要」(企画全国曹洞字青年会南都二六会)をこの東大寺大仏殿で開催しました。注要には全国から宗派の違いを超えて1700余名の僧侶、万余の慶賛の人々が集い、苦悩する人々の心の救済と人類の福祉・世界の平和に寄与することを請願しました。この宝塔は、その精神を永く継承し青年僧の思いを後世に伝えようとするものです。その昔インドのアショカ王は、各地に詔勅を刻んだ石柱を立て、仏教精神に裏付けられた理想社会の建設を目指されました。
 それらの石柱はアショカピラーと呼ばれ、その柱頭部は美術的にも極めて価値の高いものと評価されています。この宝塔は、仏法を象徴する神聖な獅子をかたどったサルナートのアショカピラー柱頭部を忠実に復元したものです。
 また、宝塔の下には、法要の参加者名簿、全国から寄せられた未来へのメッセージを封印したタイムカプセルが埋設されています。このタイムカプセルは、日本に仏教が伝わって1500年の年、西暦2038年に閉封されることになっています。
 仏法弘通と理想社会の実現のために汗された多くの先遠と同様に、この宝塔を訪れる人々が共に手を取りあって人類の福社や世界平和変現への道に歩まれることを祈念いたします。



此の相輪は千九百七拾年日本万国博覧会に出展された七重塔の相輪である。万博古河館は千式百年前に東大寺にあった七重塔の姿を会場に表現した。万博終了后其の相輪が出展各社により東大寺に寄進され千九百七拾壱年拾月此の地に移設を完了した。 万博七重塔には皇太子殿下、皇孫殿下はじめ常陸宮三笠宮秩父宮妃等金枝玉葉の方々、米国特使アイゼンハウワー夫妻、ソ連持使ノビコフ第一副首相はじめ参加諸国の元首、王族、首相等內外多数の貴賓、文化人の来訪があり登塔された。
一般来館者も会期中九百参拾五万人に及び百八拾万人がその七重塔上に登り、世紀の祭典を展望した。 いみじくも世界の人々に天平の文化の一端を紹介した仏縁ある七重塔の相輪と云えよう。千九百六拾六年此の地点から近い東塔跡を訪ねた万博準備委員が天平の人々の偉大なる霊感に打たれたことが万博七重塔起案の動機となったと伝えているが、アジアに於ける最初の万博の記念として、此の相輪が由緒深い此の地に移設されたことはまことに意義深い。此の相輪を燈として幻の塔を現実のものとした万博が終了した後も、七重の塔が決して幻の如く消え去ることなく、何時の日か後世に遺すべき優れた七重塔が大地に涌出する日を宿願とするものである。








法華堂(三月堂)



東大寺最古の建物で、寺伝では天平五年(733)の創建とされ他にも諸說あるが、平成二十二年(2010)から始まった「法華堂須弥壇修理」の際、八角二重壇の部材を測定した所、729年伐採の可能性が出てきた。
盧含那大仏造立以前から「華厳経」が講じられていたと伝えられ、華厳の根本道場として尊ばれてきたが、旧暦三月に法華会が行なわれたことから法華堂又は三月堂
とよばれるようになった。本尊不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩隧像をはじめ奈良時代を代表する仏像(乾漆造九躰・塑造一躰)が安置されている。なお修理前までおられた塑造四躰(日光・月光両菩薩、弁財天、吉祥天)と木造二射(地葳菩薩、不動明王)は、東大寺ミュージア厶に安置されている。








三昧(さんまい)堂(四月堂)



法華三昧会が旧暦の四月に営まれていたので、一般には四月堂と言われている。もとは十一面観音像の北側に安置されている普賢菩薩像を本尊としていたとされることから普賢三昧堂とも称している。
創建は治安三年(1021)、或いは治暦三年(1067)とも言われている。
現在の堂には延宝九年(1681)の墨書銘があり、鎌倉・室町期の古材を用いて建て直されたとも考えられる。後補も多く、江戸初期の解体修理の際に、現在のような内部に改められたようである。
永禄十年(1567)の兵火によって焼失した、大仏殿西の中門堂の諸仏が移されたとみられる。








興成神社(手前)/二月堂(奥)



 修二会行法を守護する三社(興成、飯道、遠敷)のひとつで、遠敷明神が若狭より送水された折、黒白二羽の鵜が岩盤を打ち破って飛び出て、そのあとから甘泉湧出したのが若狭井(わかさい)で、鵜を祀ったのがこの興成神社である。平安時代には「能く不死薬を取りて人に与え食せしめ、長生の齢を保たしむ」という誓願を持つ菩薩として信仰されていた。平安期には既に現在地に鎮座していたと想像される。八大菩薩として現存しているのは当社だけである。


二月堂



東大寺二月堂(とうだいじにがつどう )は、奈良県奈良市東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、中世の雰囲気を色濃く残している。』
東大寺二月堂 - Wikipedia








飯道(いいみち)神社



 本社は滋賀県甲賀郡雲井の海抜664mの飯道山の直下にあり、和銅四年(711)熊野本宮より勧請された修験道霊場でもある。奈良時代に神宮寺として飯道寺があり、明治期まで存在していた。
 二月堂の南東にある当社は、弘安六年(1283)頃にその井垣が修理されているので、鎌倉中期以前からの存在が確認される。但し、二月堂寛文の再建にあたり形式の変更があった模様。








重要文化財 閼伽井屋(あかいや)




この閼伽井屋は、修二会(しゅにえ)に際し每年三月十二日(十三日午前一時過ぎ)にこの屋内にある井戸より本尊十一面観世音菩薩にお供えする御香水(おこうずい)(閼伽水(あかみず))を汲む儀式を行うところである。
天平勝宝四年(752)実忠(じっちゅう)和尚が二月堂で初めて修二会を行い諸神を勧請Lた際、 若狭国の遠敷(おにう)明神が献じたものであるところから「若狭井(わかさい)」とも呼ばれる。現在の建物は、十三世紀初期に再建されたものであろう。








不動堂








法華堂経庫



 この校倉は、江戸初期まで正倉院宝庫の西北方約150mにあった庫蔵の地にあったものを、元禄九年(1696)に現在の位置に移築したものと思われる。
 昭和三十八年~三十九年の解体修理で、元来は東向きであったことが判明、創立年代は明らかではないが、建築様式上、奈良時代のものと考えられる。
 鎌倉時代に大修理が施され、小屋組,軒回り材の大半が取替えられていて、その後も享保十六年(1731)に軒を切り詰め、野小屋が新たに設けられた。
 次いで文政十一年(1828/棟札)、明治中期には屋根の葺替えが行なわれたが、昭和の修理で旧状に復された。但し、復元されたのは創建当初の姿ではなく、中世の姿にである。この経庫は元来、手向山八幡宮の宝蔵として移築されたものであるが、明治初年の神仏分離の際、東大寺に帰属することになった。入口の扉が法華堂に背を向けているのは、そのためである。
 なお、この倉の内部には、鎌倉以降の米の出し入れの留書や、ねずみの戯画がみられることから、中世以降、米倉として使用されていた時期があったようだ。
 寛文七年(1667)に二月堂が焼亡した際、絶対秘仏の二月堂本尊である十一面観音(大観音)は何とか堂外に持ち出されたが、激しく破損した光背は頭光二十個・身光六十七個の断片になってしまった。
 これらの光背断片は二百年余り忘れられていたが、 明治三十三年(1900)頃に建築史家の関野貞が発見した。その発見場所がこの法華堂校倉であった。この光背は、現在東大寺ミュージアムに展示されている(但し展示替えあり)。
 現在の庫内には、東大寺の僧侶になる住職試験(竪義/りゅうぎ)が執行される際に使用される大きな論義台が保管されている。








東大寺も広いね・・・・。
確認するとまだまだ見ていない場所がたくさんあった。
今度来ることがあったら残りも見たい!







続く。