2020/11/06 関西旅行5日目 奈良散歩 02 法隆寺

法隆寺



 法隆寺聖徳太子創立、およそ一千四百年の伝統をもつ大伽藍である。金堂、塔を中心とする西院伽藍は、よく上代寺院の相貌を伝え、わが国現存最古の寺院建築として、極めて価値が高い。 その寺地は天平十九年の当寺資材帳に「方一百丈」とあり、また鎌倉時代の古今目録抄などによれば、現地域とほぼ合致している. 夢殿を中心とする東院伽藍は、天平十一年 行信により聖徳太子斑鳩宮故地に創立されたが、天平宝字五年の東院資材帳に示される寺域は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみられる。
すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全域は、わが国上代寺院史上各種の重要史料を内包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍まどの重要遺跡をもあわせて、その歴史的並びに宗教的価値はきわめて高いものである。


法隆寺境内図







中門



五重塔と金堂のある法隆寺の中心伽藍(西院伽藍)お真正面に建つ門である。建物は入母屋造、二重の本瓦葺きで軒は深く、エンタシスの柱が立も並ぶ。上には金堂と回じ卍崩しと人字型の割束を配した高欄を備え、壮麗な飛島時代の様式を今に伝えている。 また正面が四間二戸となっているのが特徴である。その理山には諸説あるが、金堂と五重塔が横進びになった伽藍配置のために、 中門の人口もそれを反映して2つ設けられたとも言われる。 建立の時期については、 門の画隅に控える銅像の金剛カ上像(重要文化財)が和銅4年(711)の造立であることから、 それ以前には中門も完成していたと考えられる。 金剛力士像は以後、幾度となく修理が施され、大永の補修(1523-1525)では、吽形像の肩から下の体部が木造に変えられている。






金堂

現存する世界最古の本造建築であり、五重塔と並び法隆寺西院伽盛の中心となる建造物である。人母屋造、二重の本瓦貸で、初重には板葺きの裳階(もこし)が付く。桁行五間、梁行四間のi正方形に近い平面を持ち、天井は高く、支輪を折上げた組人天井とする。強い胴張りをもつエンタシスの柱、人字型の割束、雲斗や雲肘木などの組み物、卍崩しの高欄など、飛鳥時代に伝来した建築様式や技法が随所にみられる。常内には正面三間、 奥行き二間の須弥増が設けられ、中の間に釈迦三尊像
(飛島時代)、東の間に薬師如来像(飛鳥時代)、西の間に阿弥陀三尊像(鎌倉時代)が安置され、それぞれの頭上には華麗な天蓋が吊り下げられている。かつて壁面には浄土図や飛天図などの壁画が描かれていたが、昭和24年(1949)1月26日に起きた火災で小壁飛天図を除き焼損した。 これを契機として、翌年に文化財保護法が制定されている。 なお現在、 堂内の壁面を荘厳するのは、 昭和43年(1968)に再現模写された壁画である。須弥壇上にはほかに、天像(平安時代) と吉祥天像 (平安時代)、四隅に四四天王像(飛島時代)が安置されている。






五重塔

現存する木造の五重塔としては世界最古の塔で、高さ約34m。 飛鳥時代の建立で、初重の塑像群が造立された和銅4年(711)には、すでに完成していたと考えられる。塔を貫く心柱は、6世紀末に伐採されたヒノキ材が用いられた。初重には心柱の周りに四天柱が立ち、それを覆うように土で須弥壇が築かれ、仏伝世界を表す4つの場面が洞窟状の須弥山に表現されている。塔は初重から上層になるほど規則正しく塔身が細くなり、五重目の軸部は初重の約半分になる安定した姿が特徴的である。初重には袋階が付き、上層の出崩しの高欄や雲斗·雲肘木などに飛鳥時代の建築様式がみられる。 また心礎は塔搭の基壇の下、約3mの地中深くにあり、そこにガラス製の舎利容器に入った仏舎利が納められている。なお五重目の上に延びる相輪には4本の大鎌が掛けられている。 雷が落ちないいための魔除けと考えられ、法隆寺の七不思議の1つに数えられている。






講堂

創建当初は間口八間で食堂と呼ばれ、塔と金堂の北側で閉じられた回廊の外にあり、僧侶たちが仏教を学ぶ場所として使われていた。延長3年(925) に落雷によって焼失し、現在の建物は仏教研鑚の中心的殿堂として、 正暦元年 (990)に創建時とほぼ同じ規模で再建され、本尊にその再建に合わせて造立した薬師三尊像(国宝)がられた。中尊の楽師師刻来像は高さ約2,5m、両脇に日光菩薩月光菩薩が坐し、須弥壇の前には、法要の際に講師と読師の僧が坐す高座が一対設けられている。






鐘楼

当初は回館の外にあったが、創建当初の建物は延長3年(925)に大講堂とともに落雷により焼失し、 平安時代に経蔵の様式にならって再建されたが、細部には半安時代の建築様式がみられる。 梵鐘は奈良時代前期の銅鐘(重要文化財)で、現在でも大法要の際に撞かれる。






精霊院

法隆寺を創建した聖徳太子の尊像を安置する殿堂で、聖徳太子薨去されて五百年に当たる保安2年(1121)に、僧房東室の南端三房分が御堂とされ、弘安7年(1284)に建て替えられて現在の姿となった。聖霊院内陣の奥にある唐破風を付けた厨子は三部屋に区切られ、その中央には、同年に開眼された等身大の聖徳太子像、向かって右側の厨子には、太子の仏教の師である高句麗僧の恵慈法師と太子の弟君にあたる卒末呂王、背後に地蔵菩薩像、向かって左側の厨子には、太子の長子である山背大兄王と太子の弟君にあたる殖栗王、背後に如意輪観音像が祀られている。


聖徳太子
聖徳太子(574~622)は、6世紀半ばに中国大陸から日本に伝来した仏教の普及において、中心的な役割を果たした人物で、本像は推古天皇の御前で勝鬘経(しょうまんぎょう)を講説された35歳または46歳の時、あるいは摂政の姿とされる。毎年3月22日には厨子の扉を開いて、太子の御命日法要であるお会式が営まれる。このとき大山立と言われる供物などで堂内が荘厳される。






鏡池






東大門



西院伽藍から東院伽藍へ通じる参道途中に建つ。門の来歴は不明だが、昭和9年(1934)の解体修理の際に発見された部材の番付墨書から、食堂の南方あたりに南向きに建っていた門を平安時代に移築し、東西に通り抜ける門としたと推測されている。南北に通る棟木が、両脇と中央の合計3本ある三棟造という建築様式で、奈良時代の姿を伝える貴重な門である。






夢殿



宝珠が印象的な八角円堂で東院の本堂である。天平時代の創建で、 鎌倉時代の寛喜2年(1230)に高さや軒の出、 組み物などが大きく改造された。軽やかでかつ安定した外観は、法隆寺の数ある建造物のなかでもひときわ美しい。 また夢殿の名称は、聖徳太子の夢の中に現れた金人の伝説に由来する。八角形の堂宇は供養堂として建てられたものが多く、 夢殿も例外ではない。 この場所は聖徳太子が住んでおられた斑鳩宮の跡地で、朝廷からの信任も厚い学僧であった行信僧都は、 その荒廃ぶりを喫き、太子と一族の供養のために伽藍の建立を発願し、天平11年(739)に夢殿を造営した。堂内には、聖徳太子の等身像と伝える救世観音像のほか、行信僧都坐像、平安時代に東院を復興した道詮律師坐像などが安置されている。






弁天池






亥之島弁財天






三経院・西室



西室は西院伽藍回廊の西に位置する僧房で、かつては僧侶が居住していた。しかし承暦年間(1077~1081)に焼失、現在の建物は寛喜3年(1231)に再建されたもので、北側十二間を西室、南側七間を三経院とする。西室は扉口と連子窓を設け二間で1房をなす僧房で、内部は小部室に区分されていたが、現在は間仕切のない広間とする。一方、三経院は蔀戸や側面に板扉がある住宅風仏堂で、聖霊院とよく似た外観である。三経院の名称は聖徳太子が著された『三経義疏」(勝鬘経維摩経法華経の3つの経典の注釈書)にちなむものである。毎年5月16日から8月15日までの夏安居の3カ月間、後方の西室では太子の遺言によって、寺僧が三経の講義を行っている。






西円堂



光明皇后の母、橘夫人が建立を発願し、行基菩薩が養老2年(718)に建立したと伝える。八角円堂で、現在の建物は建長2年(1250)の再建であるが、凝灰岩の礎石や二重の須弥壇天平の創建当初の名残がみられる。堂内中央には薬師如来像を安置し、その周りを十二神将が囲む。また東面に千手観音像、北面に不動明王像が祀られる。西円堂では毎年2月1日から3日まで、弘長元年(1261)から続く修二会(薬師悔過)が厳修される。また3日目の結願法要に続いて追儺会(鬼追式)が行われ、3匹の鬼が基壇の上から松明を投げ、毘沙門天がその悪鬼を追い払う。

薬師如来
本尊の薬師如来像は、奈良時代に造られた丈六の大きな脱活乾漆造で「峯の薬師」と呼ばれて親しまれている。光背は鎌倉時代の後補で、七仏薬師と千体仏が取り付けられている。八角形の裳懸座に結跏趺坐する大らかな像容で、左手には薬壺を持ち、病を治してくださる仏として、今も篤い信仰を集めている。また本尊には、自分が大事にする刀や弓、鏡や櫛など、数多くの品々が各地から奉納されており、今も1万点を超える品々が保管されている。






かなり駆け足だった。
修学旅行生が多いね。
日常が戻ってきたのは良いが、ちょっと密だね・・・・・。
空いているときにもう一度来てみたいなあ。
写真はもっといっぱい撮ったのだが、載せきれなかった。



参道






続く。