2020/11/16 石神井公園散歩 04 ねりまの野草観察園/池淵史跡公園/石神井公園ふるさと文化館/稲荷諏訪合神社/石神井図書館/所沢道/甘藍の碑/道場寺

石神井公園池南側エリアを西へ向かって歩く。





◆ねりまの野草観察園









◆池淵史跡公園



池淵史跡公園は、練馬区登録史跡「池淵遺跡」を埋め戻し保存して整備した公園です。 池淵遺跡では、旧石器時代の石器ブロック、縄文・弥生時代の竪穴住居跡、中世の溝の跡等が発見されました。園内には練馬区指定文化財「旧内田家住宅」(中村三丁目にあった茅葺住宅)が移築復元されており、園路沿いには区内各所にあった庚申塔馬頭観音などの江戸時代の石造物も配置されています。 練馬の歴史に触れることのできる公園です。


旧内田家住宅




 かつて区内でよく見られた茅葺き屋根の民家です。練馬区中村にあった民家を、平成22(2010)年に移築しました。
 明治20年代初めの建築と推定されており、一部に江戸時代の古材も使われています。


今回は定休日だったので中へは入らなかったが、以前お邪魔したことがある。
2016/01/11 part2 練馬区ふるさと文化館 旧内田家住宅 - ovanの社会科見学


庚申塔


道標


力石


馬頭観音庚申塔


馬頭観音


馬頭観音


庚申塔


庚申塔


縄文時代の竪穴住居跡



 今から約5000年前の住居跡が昭和47年(1972年)の発掘調査によりこの場所から発見されました。 発掘後埋め戻し保存し、 円形の植え込みで標示しています。
 円く地面を掘り下げ住居の床とし、そこに数本の丸太を立てて、円錐状の屋根を草で葺いた簡素なつくりの住まいです。


竪穴住居跡







石神井公園ふるさと文化館



こちらも定休日だったので中へは入らなかったが以前お邪魔したことがある。
2016/01/11 part1 練馬区ふるさと文化館 - ovanの社会科見学







◆稲荷諏訪合神社


境内社









石神井図書館







◆所沢道



 所沢道は、八成橋で杉並区から練馬区へ入ります。禅定院の門前で向きを西に皮え、道場寺・三宝寺を通って、富士街道を斜断した後、南大泉を経て保谷市に入り、所沢へと通じています。概ね今の「早稲田通り」です。
 『新編武蔵風土記稿』では、この道のことを単に「所沢へノ道」と記してあり、はっきり「所沢道」と書かれたのは『石神井村誌』(大正四年)が初めてのようです。
 関東震災後、都市計画により名称が「昭和通り」となり、大部分の区間で拡幅工事が行われましたが、禅定院から石神井小学校の間には、今も所々に旧い道が残っています。
 八成橋には谷原長命寺への道標があります。江戸の文人、太田南畝が『石神井三宝寺遊記』で歩んだ道でもあり、大泉・石神井から、江戸方面への産業の道であったと共に、江戸からの参詰・行楽の道でもありました。







◆甘藍の碑

上記「所沢道」の道を挟んで反対側にあるはず。
どうもこの工事の柵の中にあるようです。
もしかしたら撤去されているかもしれませんね。




◆道場寺



 道場寺は、豊島山といい曹洞宗の寺です。
 この寺は、文中元年(北朝応安五年(1372年))、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられています。
 今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明九年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔3基があります。
 道場寺には、北条氏康印判状が所蔵されています。この古文書は、永禄五年(1562)四月二十一日、小田原の北条氏康(1515~71)から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状です。内容は、道場寺分の段銭(たんせん)、懸銭(かけせん)などの税金を免除するもので、練馬区内では、現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書です。
 境内の三重塔(昭和48年建築)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されています。


豊嶋山道場寺寺伽藍解説

 一般的に寺院の敷敗地を「境内」、 寺の主要建物の総称を 「伽藍」 と呼びます。
 伽艦とはサンスクリット語 (古代インド宮廷語) では Samghrama <サンガラーマ僧伽盛>の略語です。釈尊現世中の頃(紀元前550頃) 古代インドでは、 寺院という特定の場所や建物は無く、僧侶は布教の為に乾季に遊行 (諸国を巡って修行する事)し、 雨下になると一所に集まって共同生活をしながら修行した所が寺院の基本となりその後西暦2世紀頃から、 礼拝の対象を祀る「佛塔」や僧が居住する「僧房」などの基不的な形が出来上がりました。
佛教がインドから中国に後漢時代 (西暦67頃)に伝わり、後代には佛像を記る「佛殿」、佛舎利(釈尊の遺骨)を祀る「塔」、経典が講義される「講堂」、僧侶の居住する「僧房」、鐘や太鼓で時刻を知らせる「鐘楼」 「鼓楼」 などの現在見られる様な、 寺院建築の根幹様式が成立しました。
日本では飛島朝(西暦538頃)に百済から佛教が伝わり、 奈良朝 (西暦710~783) には、 南都六宗(華厳・律・法相・三論·・俱舎・成実) では、「塔」・「金堂」・ 「講堂」・「僧房」・「経蔵」・「鐘楼」・「食堂」の七つを七堂伽藍としました。 時代が下り、 鎌倉時代(1192~1333)になると、中国から、この寺の宗旨である禅宗 (臨済・曹洞・黄檗)が伝えられ、 独特の禅宗文化が、日本文化の基礎となりました。 特に豊洞宗では、 福井県大本山永平寺の第三代住職の徹通義介大和尚(1219~1309) が当時の中国・宋へ留学し寺院伽藍を研究して帰朝後、現在の永平寺の伽藍の基礎を確立し、 後に曹洞宗では 「佛殿」・ 「法堂」・「庫院」・「僧堂」・「山門」・「浴司」・「東司」の七宇を七堂伽藍として呼んでいます。

道場寺の伽藍は, 日本の古典建築様式を網羅して完成されました。
室町様式の「山門」を入ると、 左手には鎌倉様式の「三重塔」、右手には安土桃山様式の 「鐘楼」、正面の「本堂」は奈良 唐招提寺の金堂を模した天平様式、 更に京都 桂離宮を模して建てられた「客殿」は江戸時代と多岐に渡っています。ここまでの伽藍置に至るまでに、 昭和十一年の旧本堂着手から十年の歳月を要した當山の伽藍は後代に誇れる威容となっています。
「本堂」は、「佛線」と 「法堂」が一体となったもので本尊様を安置し各種の法要を行う場所で寺院の最も重要な建物であり「釈尊の教え」がある場所です。
「塔」は釈尊の遺骨を祀った墓所であり礼拝の対象であります。 これは「釈尊の姿」に相当します。
「鐘楼」は「鐘つき堂」の事で、 當山では朝六時に梵鐘を鳴らしますが、 これは 「釈尊の声」となります。
これら釈尊の「教え」・ 「姿」・ 「声」の三つが揃っている寺院は、 都内でも数少ない寺のひとつです。
お詣りの皆さま方も、こうした事柄を踏まえた上で、真摯に、ご参詣頂きたいと存じます。


鐘楼


三重塔



山門



お地蔵様

山門の外にいらっしゃった。





続く。