2020/11/20 見沼通船堀散歩 02 鈴木家住宅/八丁堤・橋/泉橋/見沼通船堀東縁/見沼通船堀東縁仮締め切り/東川口駅/いづみや/大宮駅

通船堀を散歩後は大宮駅前ののんべの聖地、いづみやへ。



◆鈴木家住宅



 享保十二年(1737)、鈴木家は高田家とともに井沢弥惣兵衛為永に従って、見沼千拓事業に参加しました。享保一六年の見沼通船堀の完成と同時に鈴木・高田両家は幕府から差配役に任じられ、江戸の通船屋敷で通船業務をつかさどり、八丁堤などには通船会所を持っていました。
 鈴木家は、各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの船割りを行い、文政年間以降は八丁会所において船割りにあたり、住まいも八丁に移しました。
 現在残る鈴木家住宅は、この頃の建立となり、見沼通船の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物です。






◆八丁堤・橋

下は芝川。



この左側に歩行者専用の橋が架かっていた。




 八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治(いなはんじゅうろうただはる)が築いた人工の堤ある。この堤は、長さが八町(約870m)ほどあるのでその名がつけらた。
 徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽し、利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池をつくるなど関東地方の治川事業を次々に完成させた。見沼溜井もその一つである。
 寛永六年 (1629)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八工堤を築き灌漑用水池をつくった。その面積は1200haに
及ぶ広大な溜井であった。この溜井は、下流地域二三二か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと犯らんしたり旱ばつのときは、水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保十二年(1727)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。
 また、この八丁堤は、寛永六年に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部でもある






◆泉橋

このあたりは通船堀と芝側の交差している場所となっている。



芝川(南北)



通船堀側(東西)






見沼通船堀東縁


史跡見沼通船堀案内図



一見コンクリートのように見えるが、木造だった。
ここで川を堰き止めたりして調整するんだろうけど、どうやって水を止めるんだろう?




 見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式運河の遺構です。享保十三年(1728)、德川幕府は井沢弥惣兵衛為永に命じ灌漑用水路である見沼代用水路を開削しま
した。その三年後の享保十六年、物資輸送を目的に、為永によって東绿用水、西绿用水とその中央を流れる芝川を結んでつくられたのが見沼通船堀です。
 見沼通船堀は、東西二つに分かれており、東緣侧が約390m、西緣側が約650mあります。東西の各用水と芝川の水位差が3mもあったため、閘門を用いることによって水位差を調製し、船を通しました。
 通船の時は、堀の主手から船につけた綱を引いて通しました。この時船頭はもちろんのこと、近所の人々の大きな助けが必要でした。




 見沼通船堀は、享保16年(1731) に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古とされる閘門式運河です。通船掘は代用水路縁辺の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶかたちでハ丁堤の北側につくられたものです。東縁側が約390m、西縁側が約654mありますが、代用水路と芝川との間に水位差が約3m もあったため、それぞれ関を設け、水位を調節して船を上下させました。関と関との間が閘室となり、 これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。
 通船堀を通って江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、 薪炭、酒、柿渋など代用水縁辺の村々の生産物で、 江戸からは肥料、塩、魚類、醤油、 荒物などが運ばれました。
 通船を行うのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の2ヶ月程と短くなりました。通船は明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達などによってすたれ、大正時代の終わり頃には行われなくなり、昭和6年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。
 見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な史跡として国の史跡に指定されています。また通船差配(船割役)の鈴木家住宅もあわせて指定され、保存されています。


休憩所があった。


見沼干拓と見沼代用水路

 見沼は埼玉県東南部に広がる広大な沼沢地で、武蔵国一宮である氷川女体神社 (浦●市宮本所在)とも関わりが深く、 その中で御船祭なども行われていました。江戸時代初めの寛永6年(1629)関東郡代伊奈平十郎忠治によってハ丁堤が築かれ見沼溜井がつくられました。 この溜留井の完成によって、溜井の南側の新田開発は進みましたが、 見沼沿岸の地域では水没田が生じたこと、上流がないために恒常的な水不足とたび重なる溢水などいろいろな問題がでてきました。
 江戸時代の中頃傾になると徳川吉宗は幕府財政建て直しのため各地で新田開発を押し進め、見沼も開発されることとなりました。この工事は幕府勘定方(後に勘定吟味役) 井沢弥惣兵衛為永により行われ、 まずハ丁堤を切り、中央にある芝川の旧河道を使って排水を進め、新田造成を行いました。新たな用水として、 利根川から水をひくこととし、延べ60Kmにわたる用水路を完成させました。これは在来の見沼に代わる用水という意味で、見沼代用水と呼ばれています。 こうした一連の工事は、 翌享保13年(1728) の春に完成し、 その年から新田に植え付けが行われました。なお新田造成工事は村請けや町人請けという方法で進められ、代用水縁辺の各村に新田が割り当てられました。

●は判読できなかった。







見沼通船堀東縁仮締め切り







ここでお散歩は終了。
近くのバス停から東川口駅行のバスに乗る。






東川口駅

JR武蔵野線東川口駅
ここから南浦和で乗り換えて大宮駅へ。


土下座犬

土下座犬と呼ばれているが、土下座をしているのではなく絵を描いているのだそう。
参考
東川口駅前にいる謎の「土下座犬」 資本主義の縮図を表している? - エキサイトニュース






◆いづみや




相変わらずカオス。
でも美味しかった。
コロナ渦のせいか人が少なく、活気がイマイチ・・・。






◆大宮駅



見沼通船堀はあちこち工事中できちんと見られなかった。
桜の木がたくさんあったので春にまた来てみたい。
通船堀のデモンストレーションも年に一度あるとのこと。
あと何回か来なければだ!