2020/12/05 築地・銀座散歩 03 祝橋/築地川祝橋公園/首都高出口/活字発祥の地/築地本願寺/築地歩道橋

完全に築地側に入る。
歩道橋からは築地駅が見えた。



◆祝橋

下は首都高速都心環状線(元築地川)



反対側が公園(築地川祝橋公園)になっている。






◆築地川祝橋公園






◆首都高銀座出入口






◆活字発祥の地



明治六年(1873)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し後に株式會社東京築地活版製造所と改稱日本の印刷文化の源泉となった


『平野富二(ひらの とみじ、1846年10月4日(弘化3年8月14日)- 1892年(明治25年)12月3日)は、実業家。東京築地活版製造所、石川島造船所(現IHI創立者。 』
平野富二 - Wikipedia


「平野富治の会」というのもあった。
平野富二 – 明治産業近代化のパイオニア






築地本願寺

何度も来ているはずなんだが写真をちゃんと撮ったのは2回目みたい。
2016/06/23 朝日新聞社内見学 - ovanの社会科見学


九篠武子夫人歌碑



おおいなる
 もののちからに
 ひかれゆく
わがあしあとの
 おぼつかなしや

九篠武子

『九条 武子(くじょう たけこ、1887年(明治20年)10月20日 - 1928年(昭和3年)2月7日)は、教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活動した。 』
九条武子 - Wikipedia
「篠」「条」どっちなんだろう?


酒井抱一(さかいほういつ)墓



 酒井抱一(1761~1828)は、名門酒井雅楽頭家の姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として生まれました。明和四年(1767)忠因(ただなお)と名乗ります。大名家の習いとして、武術、絵画、俳諧狂歌などにも親しみました。
 寬政九年(1797)、三七歲で西本願寺文如上人に随い出家し、「等覚院文詮暉真」と称します。浅草千束に移住し、抱一と号します。抱一は寛政年間後半ころから
尾形光琳の画風に傾倒し、文化一二年(1815)には、文化六年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営みました。抱一は、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として「光琳百図」「四季花鳥図屏風」、「夏秋草図屏風」などがあります。文政十一年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られました。


土生玄碩(はぶげんせき)墓



 土生玄碩(1762~1848)は江戸時代後期の眼科医で安芸国吉田で生まれました。名を義寿といい、桑翁と号しました。文化七年(1810)奥医師を拝命し、同十三年法眼に叙されました。文化五年には十二代将軍徳川家慶 の眼疾を治療しました。文政十二年(1829)、シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーボルト事件 に連座し、改易となり、江戸を追放されました。嘉永元年(1848)八月一七日、八十七歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中真龍寺に葬られましたが、昭和三年(1928)一二月区画整理のため改葬されました。墓標には「桑翁土生君之墓」とあります。
 著書には、「銀海波抄」「指談録」「獺祭録」などがあります。


佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔



 正保元年 (1644) に理め立て造成された佃島(現在の佃一丁目) は、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちによって築島されました。島内の地所は、先達を務めた佃村の庄屋・森孫右衛門(もりまごうえもん)、実弟・九左衛門(くざえもん)、従弟(九左衛門の娘婚)・忠兵衛をはじめ摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。
 その後、孫右衛門は本国佃村で没し、九左衛門は日本橋の本小田原町で魚問屋 (「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が佃忠兵衛を名乗って佃島の初代名主役を務めました。初代名主の佃忠兵衛は、将軍・幕府への御用漁や佃島の開発とともに、明暦三年(1657)の大火で焼失した本願寺の替地の埋め立て(築地)と御堂の再建にも尽力しました。
 境内に立つこの石塔は、佃島の開祖である初代名主・個忠兵衛の遺徳を称えて、文久元年(1861)の二百年忌に十代名主・森幸右衛門勝鎮(もりこうえうもんかつしげ)(九左衛門家が絶家のため七代目から森姓を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏(つくだうえもんひろとし)が建立した報恩塔です。正面には忠兵衛の法名と没年(「篤行院糧久西居士」/「寛文二年壬寅四月四日享年九十有四歳」)、側面には、開祖の遺徳や代々名主を奉職してきた歴史が刻まれています。
 なお、これまで石塔正面の法名は「森孫右衛門」のものと判断されてきましたが、名主家伝来の記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」であることが明らかになりました。


大瀛和上(だいえいわじょう)のお墓


大瀛(だいえい・1759~1804) 

 大瀛和上は、江戸時代後期の浄土真宗本願寺派の学僧です。生まれは安芸筒賀村(広島)。11歳で得度をし、広島報専坊の慧雲に師事して、1776年、西本願寺の学林(僧侶の教育機関)へと入り、浄土真宗の教義の勉学に励みました。その後は河内(大阪)、備後(広島)、安芸(広島)、石見(島根)を住職として周り布教活動に勤めました。
 勉学への志が高く、1794年に、広島城西に学寮・芿園舎(せいえんしゃ)を設立して子弟の育成に力を注ぎました。
 1797年に「三業帰命説」という教義が世に出されると、大瀛和上は『横超直道金剛錍』(おうちょうじきどうこんごうへい)などを著して反論し、いわゆる「三業惑乱(さんごうわくらん)』という法論が起こりました。
 この騒動は江戸幕府が介入するほどの事件となり、大瀛和上は病身のまま京都や江戸に赴き、対論しました。しかし1804年に、当時の江戸築地別院内の成勝寺にて死去されました。
 その後、幕府から「三業帰命説」は異端であるとする審判が下され、そして西本願寺からもこれが認められて、大瀛和上の徳は今日まで多くの念仏者に偲ばれています。

『三業惑乱(さんごうわくらん)は、江戸時代中期に浄土真宗本願寺派の教義をめぐって発生した大規模な紛争。宗派内で解決せず、最終的には江戸幕府寺社奉行が介入するまでに発展し、本願寺派門主寺社奉行の裁定を追認する形で決着した。西本願寺教団史上最大の異安心(異端)事件と評価されている。 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%A5%AD%E6%83%91%E4%B9%B1


間真六(はざましんろく)供養塔



 間新六光風(1680-1703)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれます。元禄十四年三月(1701)藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、藩は改易となります。新六は父及び兄光興とともに仇討ちに加わり、元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)に吉良上野介を討ち取り(赤穂事件)、麻布の長府藩毛利邸で切腹します。赤穂義士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にありますが、新六は義兄により、築地本願寺に埋葬されました。現在のものは、火災により消失したものを天保五年(1834)に羽佐間宗玄が再建したものです。


陸上交通殉難者追悼之碑

いつ果てるともない交通事故は日夜、多くの犠牲者を続出しています。
今ここに いたましい犠牲者の追悼碑を建設し、こころから、その冥福を追慕し、ふたたび、このような悲惨事をくりかえしてはならぬという警告を、より広く、より深く、多くの人びとにうったえ、交通事故絶滅への礎としたい。

文明は 尊いものか 惨めなるか エンヂンの音 耳すまし  和南


台湾物故者遺骨安置所


台湾物故者遺骨安置所建設の由来

 太平洋戦争敗戦とともに、台湾在留の日本人は引き揚げたが、台湾に残された日本人物故者の墓地には誰一人訪れる人もなく放置されていた。
 これら台湾における日本人物故者を悼む多くの方の強い願いによって、昭和32年、当時の日本及中華民国、両国政府の合意に基き、台湾各地に散在する日本人墓地の整理が開始された。昭和36年にこれが完了と共に。台北、台中、高雄の三か所に日本人遺骨安置所がつくられ、1万3千余人の遺骨が納められた。
 その後、これら全員の分骨を故国に持ち帰ることができ、これを安置するために昭和38年3月「台湾物故者慰霊塔建設委員会」により、本願寺築地別院(当時)に遺骨安置所が建設された。爾来、その維持管理および年次法要は一般財団法人台湾協会がその掌にあたっている。
 さらに、その後台湾物故者の強い希望もあって戦前故国へ帰還して亡くなった方の遺骨も、昭和60年9月以降ここに納めている。
 なお、境内整備に伴い、現在、遺骨は合葬墓に納められている。


親鸞聖人像



○誕生と幼少期
 平安時代も終わりに近い承安三年(1173)の春、わたしたち浄土真宗本願寺派の宗祖、親鸞聖人は京都にてご誕生になられました。父親は藤原氏の流れをくむ日野有範、母親については現在までよく分かっていません。日野氏は儒学を得意としており、親鷺聖人も六蔵頃から漢文の教育を受けていたと推測されます。
 親鷲聖人は九歳のとき、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度をされ、範宴(はんねん)と名のられたと伝えられています。

〇比叙山での修行
 比叡山では、横川(よかわ)で不断念仏などを修する堂僧(どうぞう)として、20年の間、厳しい学問と修行に励まれました。しかし建仁(けんじん)元年(1201)親鷺聖29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の町中にある聖徳太子ゆかりの六角堂にて8 日間の参籠(さんろう)をされました。
 95日目の暁、聖徳太子に関する偶文を唱え終ったところに六角堂の本尊である観音菩薩からの夢告(むこく)を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられます。

○吉水での法然聖人との出遇い
 その後、自身が浄土往生(じょうどおうじょう)できるための縁、すなわちその指導を得るために法然聖人の弟子となられました。聞法(もんぽう)と研学に励まれた親鷺聖人は、法然聖人の特別の信頼を得て聖人の主著である『選択本願念仏集(せんじゃくほんげんねんぶつしゅう)』と真影(しんねい)(肖像画)を写すことを許されています。

○結婚と越後流罪
 親鷺聖人は吉水での生活の中で、京都の三善為教(みよしためのり)の娘である恵信尼さまと結婚されます。そのころ法然聖人の開かれた専修念仏の教えに対しで、延暦寺や奈良の興福寺などから激しい非難が出され、ついに承元(しょうげん)元年(1207)に、法然人や親鷺聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鷺聖人は越後国 (新潟県)。に流罪となりました。これを機に「愚禿(ぐとく)親鸞」と名のられ「非僧非俗(ひそうひぞく)」の立場に立たれます。

○関東伝道と『教行信証』の執筆
 越後への流罪は、家族を連れての布教活動の始まりとなりました。およそ7年間の流人生活の後、親鷺聖人とその家族は関東へ向かわれることになります。一説には、新興の武士の都である鎌倉での布教を目指したのではないかと考えられています。建保二年(1214)、42歳の親鷺聖人は家族とともに、下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)の大領主・宇都宮頼綱の領地である稲田へと向かわれました。
 常陸国・稲田に草庵を結んだ親鷺聖人は、そこから約30数km以内の所へ一泊二日での布教活動をされたと考えられています。また主著『教行信証』もこの地で書き始められました。
 関東時代後半には鎌倉幕府で行われた一切経校合(いっさいきょうきょうごう)の事業にも参加されておられ、ここ東京を含む南関東にも多くの由緒を伝える寺院が現存しています。

〇再び京都へ
 親鷺聖人は60~63歳のころ、関東約 20年の伝道を終えられて帰洛されます。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃(わさん)」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え、書簡で他力念仏の質問に答えられました。
 弘長(こうちょう)二年十一月二十八日 (新暦1263年1月16日)90歳、親鷺聖人は三条富小路にある弟尋有の善法坊(ぜんぼうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられました。








◆築地歩道橋











続く。