2020/12/11 大泉学園散歩 02 力持ち惣兵衛の馬頭観音/西大泉三丁目児童遊園/大泉中島公園/したみち通り/本照寺/諏訪神社/西大泉三丁目街かど緑地

大泉学園駅北側をかなり広範にわたって移動する。
史跡などがだいぶバラけていた。



◆力持ち惣兵衛の馬頭観音



 この馬頭観音は、天保十一年(1840)九月に加藤惣兵衛が建立した ことが陰刻銘(いんこくめい)からわかります。
 河原石(かわらいし)で造ら れており、正面中央に「馬頭観世音」、両脇 に「当知是処(まさにしるべしこのところ)」「即是道場(すなわちこれどうじょう)」と刻まれます。背面には「七十六秤目(はかりめ)」と刻まれ、かってカ試しに用いた力石であったことがわかります。
 力石と馬頭観音とを兼ねたもの は珍しく、この石には力持ち惣兵衛と愛馬にまつわる伝承がいくつか残っています。
 そのひとつの話。江戸の屋敷の主人に力を試された惣兵衛が、持ち上げた大きな石を褒美にもらい、馬の背にのせ帰る途中、馬が力尽き石に押しつぶされ息絶えてしまいます。惣兵衛はかいがっていた馬の死をなげき悲しみ、供養のためにこの馬頭観音を造ったとのことです。









◆西大泉三丁目児童遊園

この棚は藤棚かな?








◆大泉中島公園



大泉村役場跡

 明治二十二年(1889年)町村制の施行で、埼玉県新座郡に属していた小榑(こぐれ)村(現在の大泉学園町・西大泉・南大泉)と橋戸村(現在の大泉町)は合併して榑橋村となりました。同二十四年(1891年)榑橋村は、東京府北豊島郡編入され、同時に石神井村大字土支田(現在の東大泉)と新倉村長久保を合併して大泉村が誕生しました。
 村役場は初め、ここから西、約200メートルの本照寺に隣接する村長宅に設けられましたが、大正十一年(1922年)新しく木造2階建ての村役場がここに新設されました。大正十三年(1924年)には武蔵野鉄道大泉駅(現在の大泉学園駅)ができ、村発展のきざしが見られる時期でした。大泉村役場建築記念碑には村長はじめ多数の村民の氏名が刻まれ、新しい期待がこめられています。それから幾年月、板橋区時代、練馬区時代を経て、建物は公共施設などとしていろいろ利用されてきましたが、昭和五十四年老朽化のため取り壊されました。


平和記念碑










◆したみち通り

商店街。
通りの名前は「したみち通り」と判ったんだけど、商店街の名前がわからなかった。
少なくとも街路灯に書いてあるはずなんだがどこにも見当たらない・・・。










◆本照寺



 当寺は、了光山といい日蓮宗の寺です
 本山は身延山久遠寺(旧中山法華経寺)で、昔から中山の隠居寺といわれていますが、現住職の境野姓は本寺の系図によると、田安家城代家老境野某より出ているといわれます。江戸末期から昭和初期にかけて武士の転籍が多く、当寺もその一例であると思われます。
 寺伝によると開基は、天正十年(1582)としており、本堂改築の際に、主柱の下から発見された板碑は、天正十年のもので、開基月日と近いところから、創建と何らかの関像があるのではないかといわれています。この板碑は、「日蓮題目板碑」といわれており、練馬区内の出土板碑の中では最も新1いものの一つです。
 なお、境内墓地には、慶安、萬治、元禄などの記銘の古い墓石が数多くみられます。
 また、本堂は小榑村(いまの大泉)の役場として使われたこともありました。
 初冬には、多くの万灯行列がくりだして大変なにぎわいとなります。


子育地蔵尊


石塔群


山門








諏訪神社

西大泉にある諏訪神社



 本社の創建は詳らかではありませんが、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」には、小榑村の鎮守三十番神と記されています。もと本照寺の直ぐ北側にありましたが、明治末頃現在地に移りました。
 明治の神仏分離の際に、信州諏訪神社から祭神建御名方命を勧請して社名も諏訪神社と改めました。現在でも古い土地の人々は「番神さま」と呼び親しんでいます。社殿には三十体の神像が安置されています。
 また、境内には稲荷神社があり、宇迦御魂命が祀られています。この社は神仏分離のとき村内に散在する無格の稲荷神社を合祀したものです。
拝殿には二十枚余りの絵馬が奉納されていますが、中でも「狐の大根取り入れの」絵馬は、稲荷様の眷属である狐を擬人化した独特な画柄です。
 数多くの樹木は昔の面影をよく残しています。


楽殿


稲荷神社



御嶽神社



鳥居1


鳥居2








◆西大泉三丁目街かど緑地








続く。