2020/12/11 大泉学園散歩 09 新田宿八坂神社/新田坂の石造物群/成増西歩道橋/成増スキップ村商店街/成増駅/地下鉄成増駅

川越街道へ出て成増駅でゴールかと思ったら、有楽町線は駅が別なんだね(汗
知らなかった・・・・。
地下鉄成増駅まで歩いてゴール。



◆新田宿八坂神社



 板橋宿の平尾(板橋三丁目)で中山道と分かれた江戸時代の川越街道は、上板橋宿・下練馬宿を経て、白子宿へ向かいます。
 八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近は、白子川へ下りるための大きく曲がった急坂(新田坂という)になっていました。
 新田坂から白子川の間は、新田宿と呼ばれた集落で、対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達していました。昭和初期には、小間物屋や魚屋、造り酒屋などが軒を連ねていました。
 八坂神社は、京都の八坂神社を勧請したといわれ、「天王さま」とも呼ばれています。御祭神は素戔嗚命稲田比売命です。元々は現在地よりやや南側にありましたが、昭和八年(1933)の川越街道新道(国道二五四号線)工事の際に移されました。








◆新田坂の石造物群



 この案内板の前の坂道は、江戸時代の川越街道です。板橋宿の平尾(板橋三丁目)で中山道と分かれた川越街道は、上板橋や下練馬の宿を経て川越城下へ通じていました。街道はこの付近で白子川の作る谷へ下りるために急坂となり、新田坂と呼ばれていました。
 ここに保存されている石造物四基は、新田坂周辺から集められたものです。
 道祖神は、区内唯一のもので、文久三年(1862)に建立されました。もともとは、八坂神社の入口付近にありました。
 常夜燈は、文政十三年(1830)に建立されたもので、成増二丁目34番の角に建っていたようです。「大山」と刻まれていることから道標も兼ねていたのでしょう。川越街道と分れて南へ向かう道は、土支田方面へ通じていました。
 稲荷の石祠と丸彫りの地蔵は造立年代は不明ですが、どちらも大切に保存されています。
 昭和五十九年度、四基の石造物は区の有形文化財に登録されました。


石塔群

詳しい説明が無かった。
左から上記の常夜燈、中がお稲荷さん、右がこちらも上記の道祖神だね。


道祖神


子育地蔵尊



成増地区の文化遺産
歴史ある道祖神や子育地蔵尊をお参りして頂き有難うございます
気持ちよく御参拝出来ますよう清掃活動を行っておりますが一部の方のタバコや空き缶·ごみの
投げ捨てがあります皆様で安心してくつろげる憩いの場所としてゴミ等捨てない様ご協力とご理解を宜しくお願い致します

ゴミ捨てていくなんて罰当たりだなあ。


皇太子殿下御降誕記念(国旗掲揚塔)



昭和八年十二月二十三日
帝国在郷軍人赤塚分会第六班
板橋区青年団赤塚分団
成増第二支部
上記が記載されております







◆成増西歩道橋









◆成増スキップ村商店街

商店街♪




街路灯には「成増商店街(振)」とあった。







成増駅

東武東上線成増駅
地下鉄有楽町線副都心線は少し離れたところにあることを知った・・・・。


うたの時計塔



   叱られて  しかられて
   あの子は町まで  お使いに
   この子は坊やを  ねんねしな
   夕べ  さみしい  村はずれ
   こんと  きつねが  なきゃせぬか
幼き日を想い出させるこのうたの作詞者「清水かつら」氏は、明治31年東京に生まれ、生涯の大半をこの時計塔よりほど近い和光市白子で過ごされました。
物質的、精神的に恵まれなかった少年時代の心境を託した「叱られて」や「あした」のように、父母を慕い父母の愛を求めた作品が多い一方、氏が愛した自然、成増から白子へかけての田園風景、白子川、もっとも好んでいったという吹上観音、そこから生まれた「靴が鳴る」、「雀の学校」、「緑のそよ風」は、日本中の少年少女に愛唱されてきました。又、「浜千鳥」を作詞された鹿島鳴秋氏とも親交厚く、共にこの地で活躍されました。私達は、地元の生んだ童謡詩人の業績をたたえ、この南口広場を訪れる皆さんに紹介する意味で、氏の二十五回忌にあたり、大勢の方々よりご援助を得てここに「うたの時計塔」を建立しました。


「子供とウサギ」の像

名前がわからなかったのでWEBで調べた。
参考
東京都板橋区成増駅 南口と北口の像 | mitaketami333のブログ







地下鉄成増駅

ゴールの地下鉄成増駅







思っていたより距離があった。
和光市に入るのはほんのわずかだと思っていたが、かなりの数があった。
県境が複雑なので後でちゃんと調べることにしよう。