2020/12/17 練馬三原台散歩 08 谷原歩道橋/愛宕神社/高野台歩道橋/練馬区立総合体育館/清戸道の碑/谷原延命地蔵堂

目白通りを東へ移動。
練馬区総合体育館の後は通りから離れて北上する。



◆谷原歩道橋

「ロ」の字になっている大きな歩道橋。
笹目通り目白通りの交差点。








説明板までついてた。



富士山見えた♪








愛宕神社


稲荷神社




ここは見つけづらい・・・・。
周囲をかなりうろついてしまった。








◆高野台歩道橋

下は目白通り










練馬区立総合体育館



うたかたの譜

調べると練馬区のHPに載っていた。
(3)うたかたの譜:練馬区公式ホームページ

作者が伊藤 五百亀さんと書いてあった。
『伊藤 五百亀(いとう いおき、男性、1918年5月11日 - 1992年3月4日)は、日本の彫刻家。 』
伊藤五百亀 - Wikipedia

愛媛県西条市に記念館があるんだね。
五百亀記念館








◆清戸道の碑

上記体育館前にあった。



 清戸道は、練馬区の東端から西端まで延長約15km、区のほぼ中央を横断している通路です。この道を東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に達し、北西に行けば保谷、久留米を経て清戸(清瀬市)に着きます。
 練馬の村々から江戸に出るためには、この道を通るのが最も近道でした。江戸時代から練馬のお百姓さんは、朝早く野菜をもって町に向かい、昼頃には下肥を運んで帰ってきました。その下肥を、中農以上の百姓は馬の背で、中農以下の百姓は天秤棒で運びました。
 明治大正時代には、手車が発達し、金輪のはまった車の音は、静かな夜明け前の空気をふるわせていました。
 日向坂に車の後落しをして金をもらっていた立坊(たちんぼう)がいたのも有名な話です。このように清戸道は、農産物輸送の重要な道路でした。








◆谷原延命地蔵



 地蔵の台石正面には「念佛講中 武州豊嶌郡谷原村 二十人 惣村中 安永四未十月吉辰」(一部磨滅)と刻まれ、1775年に谷原村の念仏講中の人々によって立てられたことがわかります。蓮華座に載った丸彫立姿で、左手に宝珠、右手に錫杖を持つ延命地蔵の普遍的な姿を示します。
 台石側面には「左 たなし道 大山道 二里」「右 はしど道」と刻まれ、道しるべとなっています。地蔵に向かって左側の道は「ふじ大山道」とも呼ばれ、川越街道の北町1丁目から分かれて練馬区のほぼ北東から南西を横切り、西東京市を経て、調布市甲州街道に合流、多摩川を渡り、神奈川県の大山に通じていました。また、大山から御殿場、府中から甲州街道で大月、富士吉田を経て、富士山へ至る道でもありました。富士・大山振興の人々が旧暦六月の「山開き」から旧暦七月の「山しまい」まで、講印や神社印がついた白い行衣姿で、大山(阿夫利神社)や富士山(浅間神社)に登拝するため、この道を行き交いました。


ふじ大山道の碑








続く。