2020/01/05 赤塚散歩 01 西高島平駅/高島歩道橋/成増厚生病院/急階段/赤塚4丁目児童遊園/赤塚氷川神社/赤塚氷川神社富士塚

24時間勤務アケで、都営三田線西高島平駅から東京メトロ地下鉄赤塚駅まで散歩。



西高島平駅南側エリアを散策する。



西高島平駅




スタートの都営三田線西高島平駅



西高島平は三田線の終点。
ここで線路が終わっている。







◆高島歩道橋

航空写真。
歩道橋は高島通りと新大宮バイパスの交差点にある。
歩道橋の上には首都高速5号池袋線が通っている。











◆成増厚生病院



建ったばかりかな?
すごい綺麗な建物だった。







◆急階段

地図では丸印の所。
特に名前はなかった。
老体にはこたえる・・・・。









◆赤塚4丁目児童遊園







◆赤塚氷川神社



御祭神は素蓋嗚命(すさのおのみこと)、藤原広継命。
 長禄元年(1457)に赤塚城主千葉介自胤が武蔵一宮氷川神社から御分霊を勧請したといわれています。御霊神社の由緒については不詳です。
 文政十一年(1828)成立の『新編武蔵風土記稿』には「上赤塚村 氷川御霊合社 村の鎮守なり 清凉寺持」とあって、江戸時代には清凉寺別当として社務にあたり、旧上赤塚村の鎮守として村民から崇敬を集めて いたことが記されています。
 安政四年(1857)正月に、本殿が再建され、さらに明治十四年(1881)八月に は拝殿が新築されるなど、幕末から明治時代 にかけて整備が行われています。
 なお、拝殿が新築された際には、それを記念して祭礼(奉祝祭)が斎行されましたが、 その時の様子を描いた絵馬が明治十六年に村 民から奉納されました。この祭礼図絵馬を始 め、当社所蔵の絵馬・扁額は平成二十二年度 に板橋区の登録有形民俗文化財となりました。
 また、本社の裏手には、元治元年(1864)に氏子によって奉納された「御嶽山座王 権現」碑が建てられた木曽御嶽塚があり、平成二十七年度に区登録記念物となっています


別当寺が気になったので調べてみた。
『専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだ[1]ことから、別当の居る寺を別当寺と称した。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。』
『神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ・・・』
別当寺 - Wikipedia


赤塚氷川神社田遊び

 板橋区には、国指定重要無形民俗文化財の「板橋の田遊び」が伝わり、毎年二月十一日には徳丸北野神社で、 同十三日には赤塚諏訪神社でそれぞれ斎行されています。そして当赤塚氷川神社でも毎年二月十日に特殊神事 「田遊び祭」が行われています。
 「田遊び祭」の当日は、午後二時から拝殿において神事が行われ、そのあとに、社務所に移り直会となります。 そして、午後四時になると、境内に積み上げられた「オ力ガリ」に点火され、先導・宮司・役員(総代)・太鼓・ 獅子・氏子の順に並んだ一行が、太鼓を打ち鳴らしながら、そのまわりを右回りで三回まわるという形態をとっ ています。
 また、「タロウジ・ヤスメの面」には、その内側に 「氷川大神・御霊権現、宝永八年卯正月九日、氏子奉納、 別当清涼寺」の墨書銘が確認され、正月九日という日取 りからこれは田遊びに使用されていたものと考えられます。また、その使用痕や修復の状態から、宝永八年 (1711)以降の一定期間、面が使用される所作がこ の田遊びにもあったということが推測されます。
 このように、当田遊びでは、稲作儀礼に関わる唱え言葉や所作は行われず、その形態は簡素なものとなっていますが、「板橋の田遊び」との関連性や、東日本における田遊びの伝播や展開などを解明する上で重要な芸能神事であり、平成二十二年度に区登録の無形民俗文化財となりました。また、その使用道具については、同二十一 年度に区登録の有形民俗文化財となっています。


境内社


境内社


境内社


稲荷神社


大黒天


御嶽神社


氷川神社の参道並木



 氷川神社は、かつて多くの樹木からなる社叢(しゃそう)に囲まれ ていました。大正七年(1918)発行の『北豊島郡誌』 は、「觀及び杉の大木影ダとして櫛を那ぬ」と当時の氷 つき 川神社を記しています。
 昭和三十三年(1958)から始まった、区画整理にともなう周辺の宅地化や、昭和五十二年の社殿改築によって、その光景は大きく変わりましたが、参道並木は今もなお昔の面影を残しています。
 現在、参道と境内にある樹木のうち、比較的大きな二、三本が、板橋区の保存樹木に指定されています。また、 参道入口の飛び地にあるケヤキは、幕末から明治期にか けて活躍した落語家三遊亭円朝の、「怪談乳房複」のモデルの一つといわれています。
 氷川神社の参道並木は、古くから地域の人々に親しまれ、武蔵野の面影をしのばせる参道並木として、平成六年度に板橋区文化財(天然記念物)に登録しました。


二の鳥居


「?」

一の鳥居ちかくにあったが、なんの建物なのかわからなかった。


庚申塔



一の鳥居







◆赤塚氷川神社富士塚



 富士塚は、一般的には、富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に 広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。 富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を 表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石 を取り寄せ、使用している点にあります。
 なお、他地域の富士塚では毎年七月一日前後の富士山の山 開きに合わせて祭礼が行われている所があります。また、富士塚への登山行為自体が富士山登拝と同様の御利益があるといわれています。
 当富士塚を造成したのは、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門(行名 蓉行芙厚)が開いた「丸吉講」 です。当地(旧上赤塚村)へとその丸吉講が伝播した時 「御身抜」に、「天保六年、蓉行芙厚●、七拾七年、書之」と ついては、丸吉上成(上赤塚・成増)講に伝わる御一三幅 いう墨書銘が確認されていることから、天保六年(一八三五) 頃と考えられます。
 なお、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社 の境内にある「田子山富士」に奉納された、明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「上赤塚仙元富士山」 と表記されていることから、それ以前の造成と考えられます。 また、塚上に慶応四年(1868)に白子丸瀧講(現在の和光市)の先達を務めた富澤藤七が造立した「登山三十三度 大願成就」の碑があり、造成時期はさらにさかのぼる可能性も考えられます。平成二十三年度に区の登録記念物(史跡)と なりました。

●はニンベンに杓


山頂の祠


山頂からの眺め




残念ながら富士山を見ることはできなかった。
おそらく木がなければ見える?








続く。