2021/01/07 赤塚散歩 04 板橋区№41遺跡(荒塚)/松月院大堂/赤塚八幡神社/泉福寺/庚申塔(赤塚5)/板橋区赤塚支所/赤塚しのがやと公園

板橋区№41遺跡(荒塚)からは細い路地を南西へ向かう。



板橋区№41遺跡(荒塚)


乳房榎の由来

判読不能な箇所が多いため文字化を断念。
怪談乳房榎(かいだんちぶさえのき)は、三遊亭圓朝によって創作された怪談噺である。新聞連載後、明治21年1888年)に出版された。舞台化・映像化されている。 』
『絵師として活躍していた菱川重信の妻・おきせに惚れてしまった磯貝浪江という浪人は、重信の弟子となっておきせに近づき、関係を持たないと子供を殺すと脅迫し、おきせと関係を持ってしまう。それだけでは飽き足らない浪江はおきせを独占するため、師を惨殺する。夫の死のショックで乳の出なくなったおきせの元に、死んだ重信の亡霊が現れ、乳を出す不思議な榎が松月院にあると教え、やがてその榎の乳で育った子・真与太郎は父を殺した浪江を討ち仇を取る。 』
怪談乳房榎 - Wikipedia


乳房榎記念碑








松月院大堂



 本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90cmの木像で平安時代後期の作と思われる立派な尊像である。
 また、堂前の梵鐘は暦應三(1340)年の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺四十二世中岩(円月)も撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところとなった。
 鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二の脇坊を備えた大寺であった大堂も、永禄四(1561)年上杉謙信による小田原攻めの時兵火のかかったと伝えられ、いまはわずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぎない。



 この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂にことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝建武・延元の頃(1334~40)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄四年(1561)三月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇ことごとく焼き討ちにあって消失したと言われる(注釈、その大堂が上杉謙信に焼かれたとき、火の中から本尊阿弥陀如来が出現し、八幡社傍らの古木に止まった、という記述が見られます)。 ちなみに大堂のあるこの丘は、実は古墳といわれています。
  文化十一年(1814)二月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は坐像の弥陀、御丈弐尺四寸五分ばかりと覚ゆ」と紀行文『遊歴雑記』に書いている。  
 東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。
 南北朝の暦応3年(1340)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作と言われる本尊阿弥陀如来坐像はともに有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったと言われている。


先客


鐘楼









◆赤塚八幡神社



 八幡神社は、下赤塚村の鎮守の一つで、御祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)です。ご神体として木像の騎上八幡が 安置されていたと伝えられています。 創建年代は不詳ですが、暦応三年(1340) に鋳造された大堂の銅鐘から、当社もこの頃には 既に創建されていたものと思われます。また、荒 川の氾濫を逃れるため、台地下の低地から遷座し たとの伝承も伝わります。
 当社が鎮座する地は、古墳の上であるともいわれ、 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、 「永禄兵火の時、本尊の阿弥陀火中より出現して 止る処と云」と、永禄四年(1561)、長尾景虎 (上杉謙信)の小田原攻めの戦火に巻き込まれた 折に、大堂の本尊である阿弥陀如来が火中から出現し座した場ともされています。
 特殊神事として、毎年三月に赤塚諏訪神社獅子舞(昭和五十八年度板橋区指定無形民俗文化財) が行われています。獅子舞は、かつては辻々を舞い歩いていましたが、現在では、赤塚諏訪神社で舞を奉納した後、八幡神社に奉納しています。


境内社



鳥居


参道

左が松月院大堂、右が八幡神社








◆泉福寺



 御本尊は不動明王、宗派は真言宗智山派崇福山泉福寺と号す。
 開山は不明ですが、大堂にある歴応三年(1340)四月鋳造の梵鐘の銘文中に「泉福寺」の名があるので、鎌倉時代には創建されていたと思われます。その後の寺暦については不明ですが、明治五年(1872)の「新義真言宗本末一派寺院明細帳」に「第47世住職英尊」とあり、明治初年まで47人の住職を数えたことがわかります。
 明治九年六月二十九日には、公立の下赤塚学校がある本寺を借りて開校し、旧上赤塚村の清涼寺にあった石成学校と合併して明治二十四年十月に赤塚小学校が誕生するまでの約15年間、ここで授業が行われていました。
 本寺に伝わる十一面観音立像は、天和元年(1681)七月に下赤塚村の名主春日伊兵衛が寄進したもので、平成三年度板橋区の指定文化財となりました。
 境内には、鎌倉時代から室町時代までの板碑が十六基立ち並んでいます。なお、本寺は豊島八十八ヶ所霊場の第23番札所となっています。


板碑


石塔









庚申塔(赤塚5)









板橋区赤塚支所








◆赤塚しのがやと公園



 赤塚六丁目付近は、かつて「篠ケ谷戸(しのがやと)」と呼ばれる湿地帯でした。この公園のあたりは「前谷津川(まえやつがわ)」という小河川が流れており、一帯が「谷戸(谷状に切れ込んだ地形)」になつていました。そこに 「篠竹(しのたけ)(茎の細い竹の類)」が茂つていたことから篠竹の生えた谷戸という意味で「篠ヶ谷戸」という地名になったようです。
 前谷津川は、周辺の湧き水を水源とした清流で、 昭和初期頃まで生活用水や両岸に広がる水田の用水に使われるなど人々の生活になくてはならないものでした。
 こうした地域の歴史を後世に伝える手がかりと して、この公園に「しのがやと」という名前を残しました。









続く。