2021/01/09 板橋徳丸散歩 01 新高島平駅/高島三中前歩道橋/首都高速5号池袋線/赤塚公園/沖口公園・沖山遺跡/赤塚諏訪神社/諏訪神社富士塚/観音堂

24時間勤務アケで都営三田線新高島平駅課から東京メトロ平和台駅まで散歩。
7日も同じ駅間を歩いたが今度は少し東寄り。



新高島平駅から南下。
首都高速当たりの史跡を散策する。



新高島平駅

スタートの都営三田線新高島平駅
この前の新高島平前歩道橋も一緒に撮った。










◆高島三中前歩道橋

下の道に特に名前はないみたいだ。




しかし、高島台の大地はすごいね・・・・。
酔っぱらって帰ってきたら家にたどり着け付きる気がしない・・・。







首都高速5号池袋線



こちらを通って高速の反対側へ。







◆赤塚公園

都立の公園。
左側の高架は「首都高速5号池袋線










◆沖口公園・沖山遺跡



 沖口公園がある場所は昔は「沖山口」と呼ばれていました。
 「沖山遺跡」とう名前は、この昔の字名に由来しています。
 荒川や高島平を望むこの高台には、昔から人々がかわるがわる暮らしていました。四葉地区の区画整理に伴う発掘調査と、隣にある都立赤塚公園沖山地区の遺跡範囲確認調査から遺跡の様子が少しずつわかってきました。
 沖山遺跡のなかで特に注目されるのは、弥生時代の溝をめぐらした環濠集落です。溝は沖口公園の一画を通り、都立赤塚公園沖山地区をめぐっており、集落は現在の広場の部分にあると考えられます。
 弥生時代には、このように張り出した高台の地形のまわりに溝をめぐらし、その中に集落を作り、生活をすることがあります。このような溝は、当時の生活をしていた人々を敵から守るものであったかもしれません。板橋区では志村城山遺跡、中台二丁目にある中台畠中遺跡、小茂根図書館が建った場所にある根ノ上遺跡にも同じような環濠集落が見つかっています。
 発掘調査では、弥生時代のほかに奈良・平安時代の住居や鎌倉・室町時代の溝も見つかっています。


空間のメビウス 古代からのいざない

牛尾敬三 作

『牛尾 啓三 (うしお けいぞう、1951年10月20日 - ) は日本の彫刻家。兵庫県神崎郡福崎町出身。兵庫県立姫路西高等学校、京都教育大学を経て、京都市立芸術大学に学ぶ。』
牛尾啓三 - Wikipedia



先客。









◆赤塚諏訪神社


諏訪神社無形文化財「田遊び」

 御祭神建御名方神(たけみなかたのかみ)。
 創建年代は不詳であるが、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457~60)に信濃国諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。その後寛永7年(1630)頃に十羅刹女を配祀したが、神仏分離の際これを廃した。
 江戸時代の江戸名所図会には「田遊び」神事が記載されている。田遊びは、水田耕作にかかわる神事で、年の始めにあたりその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る「予祝」の祭りである。毎年二月十三日(旧暦の正月十三日)の夜に行われ、本殿と大鳥居間の朝輿の渡御の後、社殿に設けた「もがり」の中で一年間の農耕行事が所作と唱言によって象徴的に演じられている。
昭和五十一年に徳丸北野神社の田遊びとともに国の重要無形民俗文化財に指定された。


江戸・東京の農業 赤塚田んぼ

 この地は天保12年(1841)高嶋秋帆が鉄砲や大砲を使って兵を訓練したことが有名で、高島平と呼ぶようになりました。
 江戸時代、東は志村から徳丸、四葉を経て西は赤塚、新河岸あたりまでの荒川右岸一帯は台地からの湧水の多い湿地帯で、徳丸ケ原と呼ばれていました。ここに水田を作り正保年間(1644〜8)には4,900俵(294トン)の米が生産されていました。
 明治2年、徳丸ケ原は大がかりな開墾が行われ、大正5年には、352ヘクタールの水田から、14,000俵(840トン)の米を生産する穀倉地帯となりました。かつてこの地域は大半が旧赤塚村に属していたので、農家の間では「赤塚たんぼ」とよばれ春ともなると、菜の花やれんげの咲き乱れる広々としたのどかな田園風景でした。
 また、赤塚村には、長徳元年(995)より五穀豊穣と子孫繁栄を祈る国の指定重要無形民俗文化財の「田遊び祭」が、農家の人達によって今なお受け継がれています。


田遊びの碑


秋葉神社


境内社


境内社


境内社


水神宮


大国神社/稲荷神社/薬師神社


楽殿


夫婦イチョウ



赤塚諏訪神社の夫婦イチョウ
 樹種、いちょう(イチョウ科。樹高、約20m。目通り、雄株は約500cm・雌株は約420cm。樹齢、不明。
 本殿に向かって右に雄株、左側にやや小さい雌株がたっている。
 この夫婦いちょうは夫婦和合、子孫繁栄などの信仰と結びついて人々の心のよりどころとなっている。
 平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。


神門


鳥居







諏訪神社富士塚



 富士塚 は、一般的には富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。
 富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配して、富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。
 また、富士塚への登山自体が、富士山登拝と同様の御利益があるとされています。なお、各地の富士塚では毎年七月一日前後に、富士山の山開きに合わせた祭礼が行われている所もあります。
 当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門 が開いた講中です。当地(旧下赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期については、詳らかではありませんが、和光市白子熊野神社境内の富士塚にある、明治三年(1870)に奉納された鳥居には、他地域の丸吉講の講中とともに下赤塚の人びとの名が見られることから、それ以前の幕末期には当地に伝播していた可能性が考えられます。
 また、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」へ奉納された明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元富士山」と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。
 当富士塚は、平成二十二年度、区の登録記念物(史跡)となりました。


山頂


山頂からの眺め



木がなければ富士山見える??





続く。