ここでも徐々に南へ進む。
あまり大きな通りがない。
谷津坂の勾配はかなりあったなあ。
◆観音堂
◆とりげつ坂
こちらもgoogle mapには載っているが現地では標識など見当たらなかった。
こちらに詳しく載っている。
とりげつ坂(板橋区西台)
profile/とりげつ坂
◆新道(しんどう)の坂
こちらもgoogle mapには載っているが標識など見当たらなかった。
こちらに詳しく載っている。
新道の坂(板橋区西台)
◆西台山不動尊
庚申塔 他
水掛不動尊
西台山不動尊から坂上方向。
こちらもgoogle mapには載っているが現地では標識など見当たらなかった。
こちらに詳しく載っている。
谷津坂(板橋区西台)
profile/谷津坂
◆西台山円福寺
円福寺と雲版・月待板碑
曹洞宗西台山を号し、文明十一年(1479)太田道灌が川越に開創し、慶長十三(1608)年にこの地へ移転した。
かつては関東屈指の名刹、西台の大寺として知られ、慶安二(1649)年には幕府より寺領二十石の朱印地を与えられた。しかし、弘化二(1845)年の火災以降は往時の盛大さを取り戻せなかった。
ここの寺宝として雲版と月待板碑が残されている。
雲版は縦三十八・横三十五センチの青銅製で、太田道灌が当寺を創建した際、茶室に掛けたものと伝えられている。元来禅家の仏具の一種であるが、その豪壮な作風には目をみはらされるものがある。
月待板碑は浄土信仰と月待信仰とが結合したとみられる遺物で、この板碑は文明十七(1485)年の銘があり、弥陀一尊画像を陰刻した芸術的香りの高い、都内でも有数の板碑といわれる。
園福寺の文化財
圓福寺の寺宝については、天保七年(1836)、 江戸神田雉子町の名主であった斎藤幸成(月岑) が版行した『江戸名所図会』の中で、永正十年(1513)に圓福寺に宛てた多田彦六老母寄進状と、 太田道灌が茶室で使用していたとされる明徳二年 (1391)の雲版が、長谷川宗秀(雪旦)の挿画とともに紹介されるなど、江戸時代から広く知られていました。これらは圓福寺文書、明徳二年 雲版として区の文化財となっています。
このほかの文化財としては、文明十七年(1485)の圓福寺月待画像板碑やコウヤマキがありますが、平成二十年には、寺所蔵の開基太田道灌像が、文化十四年(1817)に国学者小山田与清が記した『擁書樓日記』に見られる、江戸近辺 の道灌ゆかりの六ケ寺に納められた木像の一体で あるということが判明し、新たに登録されました。
なお、これらは、弘化二年(1845)に起きた当寺の大火の被害を免れた貴重な資料です。
孔雀?
シートがあってよく見えなかったが、シルエットから孔雀だと思う。
樹種、こうやまき(スギ科)。樹高、約20m。目通り、約290cm。根回り、約330cm。樹齢、約400年(推定)。
この高野槙(こうやまき)は、円福寺が川越から西台に移転してきた当時、紀州高野山より移植したとの伝承があり、霊木として信仰を集めてきた。
現在でも、十分な樹冠の広がりを持ち、生育の環境も良好で樹勢は旺盛である。また、樹種としても日本の特産種であり、区内でも珍しい巨木である。
平成六年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
◆庚申塔(西台4)
続く。