2021/02/02 氷川台散歩 03 東京少年鑑別所/城北中央公園/上板橋体育館/桜川御嶽神社/栗原橋/茂呂遺跡

城北中央公園周辺を散策する。
その後は茂呂山通りを南下する。



東京少年鑑別所

鑑別所について何も知らなかったので調べてみた。
少年鑑別所(しょうねんかんべつしょ)は、少年鑑別所法によって設置されている、少年の収容施設である。
主に家庭裁判所の観護措置決定により送致された少年を収容し、医学、心理学、社会学、教育学等の専門知識に基づいて、資質及び環境の調査を行う。鑑別所(かんべつしょ)とも言う。 』
少年鑑別所 - Wikipedia

こちらのサイトの方がわかりやすかった。
鑑別所と少年院の違い | 少年院.com







◆城北中央公園



管理署


栗原遺跡



 栗原遺跡は、昭和三十年(1955)に立教学院総合運動場造成の際、発掘調査された遺跡で、このあたりの旧小字名「栗原」を遺跡名としたものです。
 昭和三十年(1955)から昭和三十一年(1956)にかけての調査では、赤土(関東ローム層)の中から、黒曜石製の打製石器が出土し、今から1万年以上前の旧石器時代から、この地で人々が生活していたことがわかりました。また、縄文土器が出土すると共に、弥生~平安時代の竪穴住居跡が発見されています。このあたりは、石神井川と田柄川に挟まれた台地であり、日当たりもよく、生活に欠かせない水の得やすい土地であったため、長い間、人々が生活してたことが偲ばれます。
 復元された住居跡は、八世紀初め頃(奈良時代初め)のもので、昭和三十二年(1957)東京大学教授、藤島亥治郎博士の設計により建てられたものです。発掘された竪穴住居跡は、地表から約50センチメートルの深さに掘られ、北側に粘土のかまどが築かれていました。柱穴は4箇所あり、復元の際には、径約21センチメートルのケヤキ丸太を主柱にし、梁・桁にスギ丸太を用い、カヤを葺いて復元しています。
 この復元住居跡は、奈良の都の華やかさにくらべ、当時の地方農民の暮しぶりがどんなものであったかを語りかけてくれます。
 現在は、東京都が用地と復元した竪穴住居を管理しています。


井戸




茂呂山通り

左が公園、右が下記の体育館側。







上板橋体育館




近くにあった観光マップ







◆桜川御嶽神社



 創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山毘古命(かなやまひこのみこと)・金山毘賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。
 栗原の地は、康正二(1456)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。
 当神社もその頃、信州の御嶽山(一説に甲州)を勧請したものと伝えられる。境内にある嘉永七(1854)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。
 毎年三月八日に行われる毘謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(蓬莱山)を神前に供える風習が残されている。


先客


境内社



境内社



境内社


狛犬

犬ではなくてオオカミとのことだった。
参考
御嶽神社(板橋区桜川一丁目)のオオカミ : 板橋区のいたる所にいたるがいたよ~松崎いたるの日々雑感


鳥居







◆栗原橋










◆茂呂遺跡



 通称”オセド山”と呼ばれるこの独立丘陵は、縄文時代早期の土器破片の散布地として知られていました。
 昭和二十六年(1951)三月、縄文土器の採集に訪れたひとりの中学生が、この栗原新道を切通し断面の関東ローム層中から、礫群と黒曜石製の石器を発見しました。
 この発見をもとに、同年七月明治大学と武蔵野郷土館とが共同で、発掘調査を行いました。こうして、旧石器時代の遺跡は、岩宿遺跡が発見された北関東だけでなく、南関東においても存在することが分かりました。
 また、茂呂遺跡から出土したナイフ形石器(刺す道具)には、両側に加工が施された特徴的な作りが見られます。これは「茂呂型ナイフ形石器」と名付けられ、ナイフ形石器の標識型式の一つとして重要であることから、平成十一年に東京都の有形文化財に指定されました。
 昭和四十四年、この丘陵の一部は東京都の史跡(考古)に指定され、さらに昭和六十年(1985)には板橋区登録記念物に認定されました。



柵で囲まれていて中に入ることができなかった。






続く。